北里:おかげで6年間の留学生活の間に、破傷風や結核の研究で成果を挙げ、ドイツからは外国人で初となる、「教授」の称号を贈られます。だが、成果を出して帰国したものの日本では研究を続ける場所がない。
窮地を救ってくれたのが、福沢諭吉でした。
見城:第3の恩人ですね。北里 ええ、「これだけの優秀な男を無為におくのは国の恥」と、港区の芝公園内に研究所を建ててくださった。
渋沢:日本初の伝染病研究所の誕生ですね。
見城:報酬よりも、国の将来を見据えて、困難な仕事にまい進する人生は、ふたりに共通するところです。
渋沢:民が努力しなければ国は駄目になる。栄一もそうした気持ちが強かった。
見城:大蔵省で活躍した栄一ですが、民間から日本の商工業を興そうと、73(明治6)年に退職する。
同僚からは、「商売のような軽蔑される仕事で、どう生きるのか」と忠告を受けるなかでの決意でした。
渋沢:驚いたことに、1年もすると、すっかり人気も信用も得てしまう。
銀行の頭取や商工会議所の会頭、日本鉄道会社や東京電力から東京石川島造船所まで、経済インフラを確立するために奔走します。
見城:現在の一橋大となる東京商科大学や、東京女学館など教育制度の構築にも力を注ぐなど、活躍の広さは見事なものです。
渋沢:「日本の経済界を担う頭脳」を育てる、という信念ですね。
見城:民間から国を支えたのは、柴三郎も同じです。国から独立し、民間の北里研究所を設立した。
北里:管轄が内務省から文部省へ移行したのがきっかけでした。研究と教育が主体の文部省では、実社会予防疫学の実践が難しくなる、と危惧したのです。
見城:対立ではなく、さらなる発展を目指した。
北里:ええ、今日は、せっかく渋沢さんにお会いするので、柴三郎と栄一さんの接点を調べてきました。
ふたりが一緒に仕事をした話は、あまり知られていませんが、北里研究所の資料に医療関係の記録があります。1911(明治44)年、恩賜財団済生会を創立する際は、栄一さんが顧問を、柴三郎は医務主管を務めています。
13(大正2)年の日本結核予防協会の設立でも、栄一さんが副会頭、柴三郎は理事長を務めています。
見城:私も気になって調べました。日本救療事業の「同愛社」は、経済的に余裕のない患者を診る慈善病院です。『渋沢栄一伝記資料』には、そこに資金を提供する「社員」として栄一と柴三郎の名前があります。