母は私を身ごもってダンサーをやめたんです。大好きな道を諦めて育ててくれた。それを知ってから母をより大事にしなければと思って、亡くなるまでずっと二人で暮らして面倒を見ました。勉強は嫌いだったけど、バレエは大好きで熱があってもバレエにだけは出かけていました。

 わが家の隣に、夜の仕事をしているお姉さんが住んでいました。部屋に招かれると「まりちゃん(本名・鞠子)、今日はこれ」って、ハーシーのチョコレートとかビスケットとかキャラメルとか駄菓子屋さんでは売っていないようなお菓子をくれた。お姉さんの部屋は壁紙も家具も色鮮やかで、「いいなあ」と子供心にうらやんだものです。

 というのも、うちは妹と私と祖母と叔父、両親の6人が6畳一間で暮らしていたもんだから。夜働いている父を、朝になると「ごめんなさいよ」とまたいで学校に行く。そんな下町育ちなんです。

――62年に歌手デビューしたが、なかなかブレークには至らない。それでも有名歌手の前座など務めながら、何とか両親と妹を養った。

 いろんな歌手の前座をやりながら「いつか一人でショーをやりたい」と思っていました。

 ドラマで共演したエノケンこと榎本健一さんにはとてもお世話になり、「ナナ、お前は正面より、後ろ姿がいいな。顔はチンクシャみたいだけど」って言われたんです。

 つまり「舞台を目指せ」ということ。テレビでは正面の顔ばかりだけど、舞台では後ろ姿でも魅了することができるから。

 そんなとき、アメリカ行きの話をもらったんです。所属事務所が経営しているナイトクラブがロサンゼルスにあって。23歳になる直前の夏でした。

 自分で舞台を構成したんです。着物姿で「お江戸日本橋」をかけながらステージに出て、パッと着物を脱ぐと下は超ミニスカート。それでビートルズやモンキーズの曲などポップスを歌うと、日系の方をはじめお客さんがとても喜んでくれて、うれしかったですね。

 ラスベガスに連れていってもらったことも忘れられません。シャーリー・マクレーンのショーを見たんです。感動しました。楽屋に連れていってもらったんです。並んで写真を撮って。鳥肌が立っちゃった。しかも彼女は「ニホン、から、来たの?」と片言の日本語で話しかけてくれたんです。

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