――66年、成瀬巳喜男監督の「ひき逃げ」で主演を務める。

 節目節目で、すごい人たちに引っ張り上げてもらってきました。東宝に入れたのはプロデューサーの藤本真澄さんが目をかけてくれたおかげでしたし、成瀬監督はたった一言のセリフを聞いて、主演に抜擢(ばってき)してくれたんです。

 でも黒澤明監督とは合いませんでしたね。藤本さんは黒澤監督に「黒沢を使ってやってくれ、おもしろいやつだから」って言ったんだそうです。そしたら黒澤さん、なんて言ったと思います? 「名前を変えたら使ってやる」だって(笑)。

――71年に映画会社が俳優を囲っていた「五社協定」がなくなり、俳優らは映画会社を解雇される。黒沢もフリーにならざるを得なくなった。

 あのときは自殺まで考えましたよ。「このままじゃ仕事がなくなる」って思った。僕は父と弟たちの大黒柱で、ようやく貧乏生活から抜け出せて横浜にマンションを買ったばかりだったんです。そのベランダから飛び降りようかと思った。でもそのときもやっぱりおふくろの「年男、頼むよ」が頭に残ってたんですね。このままじゃ終われない、と。

 そんなとき、日本コロムビアのプロデューサーが声をかけてくれました。75年に「やすらぎ」という曲がヒットしました。続いて「時には娼婦のように」という曲に出合った。作詞家のなかにし礼さんは僕の顔を見て曲が浮かんだ、と言ってました。そのころ僕は「結婚したい独身男性ナンバーワン」に選ばれていたんです。プレイボーイで男の塊のような顔に見えたらしいです。実際は違うんですけどねえ。

――75年、パリで出会ったモデルの街田リーヌさんにひとめぼれし、76年に結婚。以来43年間、連れ添い続けている。

 僕には才能も何もないんですよ。それはよくわかってる。スタイルはよくないし、歌だってうまくない。でも、そこをなんとか自分のオリジナリティーを出すことで生き延びてきた。「時には娼婦のように」もちょっと投げやりに、わざと抑揚をつけずに、嫌々歌ってるようにした。それがウケたんです。もともと歌詞がいいですからね。

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