――エキストラ出演から始まった芸能生活だが、頭角を現し、18歳だった64年、ドラマ「幸福試験」に主演。翌年、東映に入社し「網走番外地 北海篇」から5本連続で同シリーズのヒロインを演じ売れっ子となった。

 姉は「女優」と呼ばれることを嫌いました。女優は演技だけでなく容姿も評価される。自分はあくまで演技だけで評価をされたい。「女優」ではなく「俳優」だと思っていたんです。

 ファンの声を大切にしていました。ファンレターに自ら返事を書くんです。ファンとの手紙のやりとりが、演技についてためになったと言ってました。

 とても頑固で、台本で気に入らないところがあれば書き直して、脚本家に交渉していました。「見る人も同じ考えだと思います」と。でも向こうは向こうで考えがあるから、なかなか通りません。それで降板したことが何度もあります。

 見る人の気持ちを大切にしたい、大衆から支持されたいという気持ちが強かったんです。「すこし愛して、なが~く愛して」のCMは、サントリーレッドが大衆酒だから引き受けたと言ってました。実際はお酒はあまり飲めない。ビール2、3杯で十分でしたね。

――私生活では必ずしも恵まれなかった。73年に渡瀬恒彦と結婚したが、5年後に離婚。80年に森進一と再婚したものの、84年に離婚。会見で麗子は、「家庭に男が二人いた」と結婚生活を振り返った。この言葉の裏には、重大な選択があった。

 一寛さん(森進一の本名)との結婚生活の2年目、姉は妊娠・中絶をしたんです。夏のある日、姉は私に唐突に切り出しました。

「妊娠したから中絶したい。どこか病院を紹介して」

 びっくりしました。姉は卵管を手術したこともあって、妊娠はなかなか難しいと思われていたんです。

 私は産むように勧めました。でも姉は、ドラマに出演中で途中降板できない、迷惑をかけてしまう、と。

 一寛さんに相談したのかと聞くと、教えていないと言う。私は、一寛さんが子どもを欲しがっていることを知っていたので説得したんですが、姉はこちらの言うことなど聞きません。

 ドラマを降板し幸せな家庭生活に入るか、中絶してでもこのドラマをまっとうして俳優を続けていくか。人生の重大な岐路でした。

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