大原麗子、没後10年 「家庭に男が二人」発言の裏にあった妊娠、中絶 (2/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

大原麗子、没後10年 「家庭に男が二人」発言の裏にあった妊娠、中絶

このエントリーをはてなブックマークに追加
週刊朝日
母の俊子さんが麗子の初の海外ロケに同行して撮影した (大原政光さん提供)

母の俊子さんが麗子の初の海外ロケに同行して撮影した (大原政光さん提供)

【左】母の俊子さんに抱かれる麗子、1歳。自分の富士額が嫌いだった麗子は、写真にマジックで髪を書き加えたという【右】弟の政光さんの七五三の際に撮影した姉弟の2ショット (大原政光さん提供)

【左】母の俊子さんに抱かれる麗子、1歳。自分の富士額が嫌いだった麗子は、写真にマジックで髪を書き加えたという【右】弟の政光さんの七五三の際に撮影した姉弟の2ショット (大原政光さん提供)

バレエ教室に通えるのが嬉しかった。自宅の裏にある畑で、プリマドンナを気取ってポーズを。小学6年生の頃 (大原政光さん提供)

バレエ教室に通えるのが嬉しかった。自宅の裏にある畑で、プリマドンナを気取ってポーズを。小学6年生の頃 (大原政光さん提供)

実弟の大原政光さんが、残された台本を示して語った。「姉は納得できない台詞があると書き換えて、脚本家に変更を迫りました。応じてもらえなかったので降板したことが、何度もあります」 (撮影/写真部・小黒冴夏)

実弟の大原政光さんが、残された台本を示して語った。「姉は納得できない台詞があると書き換えて、脚本家に変更を迫りました。応じてもらえなかったので降板したことが、何度もあります」 (撮影/写真部・小黒冴夏)

 私の面倒もよく見てくれました。喧嘩も強くてね。何かあったら、すぐ助けに来てくれました。

 幸せな4人家族のようだが、実は大原家は大きな問題を抱えていた。政武さんは日常的に俊子さんと麗子を殴ったうえ、住み込みで働く従業員と関係を持ったのだ。

 母は家を出ました。一人で出ていくはずが、姉がどうしても一緒に行くとせがんだようで、多磨霊園のそばの4畳半一間に二人で住み始めました。姉が8歳、私が5歳のときのことです。

 姉は母を独り占めできるから、嬉しかったようです。ただし一緒にいられる時間はとても短かったはずです。父が養育費を出さなかったため、母は働きづめ。昼は都庁の下請けをしている会社で事務仕事、夜は皿洗いをしていました。

 姉はときどき父を訪ねてきました。たぶんお金の相談だったのでしょう。

 生活が苦しいなか、母は姉をバレエ教室に通わせました。習いたがっていたので無理して入れたんですね。

 小学6年の学芸会で、姉は「パンドラの匣(はこ)」という劇で主役を演じました。男の子の役で、私の半ズボンをはいて出演しました。劇が終わるとものすごい拍手だったそうで、姉は感動し、それを機に女優になりたいと思ったようです。

――麗子が中学に入ったのに合わせ、夫妻は正式に離婚。その3年後、父に顔を見せに行った麗子は、屈辱的な対応を受けた。

 姉は、母親を幸せにしたいという気持ちが強くなっていきました。芸能界に入って成功し、楽をさせてあげたい、と。オーディションを受けたり、野獣会(東京・六本木に集まった若者たちの会。多くが後に芸能界入りした)に入るなどして、チャンスをうかがっていました。

 高校1年のときに何かの役を得て、初めてドーランを塗ってもらいました。よほど嬉しかったらしく、その顔を家族に見てもらいたいと思ったんです。父のところにも見せに来ました。

 ところが父は、ドーランを塗った顔を見た途端、殴りつけたんです。父の価値観では、芸能界なんてまっとうな仕事ではない。堕(お)ちるに堕ちたといった気持ちで手が出たようです。

 かなり強く殴られたので、鼻の骨の右側が少し盛り上がってしまいました。姉はこれが嫌で、そこが目立たないよう、写真の撮られ方を気にしていました。

 母との関係はより強くなっていったと思います。初めて海外でCM撮影をしたときには、母をロケ地のハワイに連れていきました。母にとって、生まれて初めての海外旅行。カメラを買い、姉を撮ったようです。


トップにもどる 週刊朝日記事一覧

おすすめの記事おすすめの記事
関連記事関連記事

あわせて読みたい あわせて読みたい