これは後になって知ったのですが、僕の祖父は読売新聞の演芸記者から始まり、シナリオや戯曲を書いていたとか。だから「役者になりたい」と言ったときも、あまり強固に反対されなかった。当時は作詞家だったので祖父の過去は意外でした。おやじは軍人だったけど、やっぱり芝居や俳句が好きだった。ただ二人とも「やる以上は一所懸命にやれ!」と言っていました。

 学校の環境も影響した。玉川学園に通っていましたが、映画演劇関係者の子女が多かったんですよ。お父さんが美術家だったり、俳優さんだったり。ツテで日活の撮影所に出入りさせてもらったりもしていました。

 実は小学校のとき、親に演劇部に入れられました。担任の先生が「引っ込み思案なところがあるので、人前で何かやらせたほうがいい」って。小学校6年くらいまで、いい役に抜擢されていたけど、6年生のときにすごく芝居のうまい転校生が1学年下に入ってきた。そのときに「これからはこいつだな」って予感がした(笑)。

 それが案の定で、後の浜田光夫。吉永小百合さんの相手役をたくさん務めた役者ですよ。「僕も石原裕次郎さん好きなので日活に連れてってください」って言われて、連れてったら3カ月後に向こうがデビューしていましたからね(笑)。

――子供心にちょっとした挫折を感じ、いったんは、その世界から遠ざかる。本格的に俳優を目指すようになったのは大学進学後。劇団の養成所に入り、芝居にのめりこんでいく。

 大学の同級生が俳優座の養成所の試験を受けて受かったんです。彼が「来年受けてみれば?」って言ってくれて、大学2年で受けて受かった。そこから「芝居」を真剣に考えはじめたんです。

 俳優座の養成所の同期は、地井武男に原田芳雄たち。授業の終わりには仲代達矢さんや市原悦子さんの稽古を観ることができて、芝居を作るおもしろさを知っていくんです。

 実技の授業では何人かで同じテーマの短いエチュードを作って競い合うんです。なんとかおもしろいものを作ろう、と刺激し合ってね。前田吟なんてモジモジしたところが一切なくて、潔く「バーン!」とやるからね、そういうのに刺激されるんです。ライバルっていえばライバルだけど、でも楽しかったですね。

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