木村拓哉と共演し胃がキリキリ 笹野高史がブレイクした作品とは (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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木村拓哉と共演し胃がキリキリ 笹野高史がブレイクした作品とは

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中村千晶週刊朝日

笹野高史(ささの・たかし)/1948年、兵庫県生まれ。日本大学芸術学部中退。串田和美主宰の「自由劇場」を経て、33歳で独立。山田洋次監督「男はつらいよ」シリーズ、「釣りバカ日誌」シリーズなどで知られる。「武士の一分」徳平役で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞などを受賞。42歳のときに17歳年下の妻と結婚。4人の息子たちも俳優として活躍。著書に『待機晩成』(ぴあ)がある。最新の出演舞台は「喜劇 有頂天団地」(12月22日まで東京・新橋演舞場、2019年1月12~27日 京都・南座) (撮影/写真部・小山幸佑)

笹野高史(ささの・たかし)/1948年、兵庫県生まれ。日本大学芸術学部中退。串田和美主宰の「自由劇場」を経て、33歳で独立。山田洋次監督「男はつらいよ」シリーズ、「釣りバカ日誌」シリーズなどで知られる。「武士の一分」徳平役で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞などを受賞。42歳のときに17歳年下の妻と結婚。4人の息子たちも俳優として活躍。著書に『待機晩成』(ぴあ)がある。最新の出演舞台は「喜劇 有頂天団地」(12月22日まで東京・新橋演舞場、2019年1月12~27日 京都・南座) (撮影/写真部・小山幸佑)

笹野高史 (撮影/写真部・小山幸佑)

笹野高史 (撮影/写真部・小山幸佑)

 もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優の笹野高史さんです。もし俳優になっていなかったら、いまごろ外洋の船の上にいたかもしれない。そんな人生を振り返ります。

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*  *  *
 どうやらマザコンのようでしてね。あまり「マザコンです」と言いたかないんです。恥ずかしいから。

 でも、11歳のときに母親が死にましたんでね、それが「俳優」になった自分にとても大きく影響しているんじゃないかと思います。もしも母親が生きていたならば、たぶん家業を助けていたでしょうね。

――笹野は兵庫県の淡路島で、造り酒屋の四男坊として生まれた。父は笹野が3歳のときに結核で他界。同じ病に倒れた母の死は、11歳の少年にとっては重すぎた。ショックでぼうぜんとするなか、母の面影を追って出会ったのが「映画」だった。

 母親が映画が好きだったことを思い出したんです。で、一人で映画館に行った。母親が食い入るように見ていた山本富士子さんや若尾文子さんをスクリーンで見ながら、自分の隣に母親が座っている気がした。母親に巡り合うようなつもりで、映画館の暗がりに通ったんです。

 これがおもしろくてね。そのうちに映画俳優という職業に興味が出てきた。「映画俳優になったら、お母ちゃん喜ぶんじゃないかなあ」って。え? やっぱりだいぶマザコンですかね?(笑)

 でも映画俳優になるなんて、言いだせないですよ。僕は二枚目でもないし、身長が180センチあるわけでもない。実際、3番目の兄貴にバレたとき「アホかぁ、お前、その顔で!?」と大笑いされましたからね。だから「映画監督を目指す」とうそをついて、大学に進ませてもらったんです。

――大学の先輩に誘われて、演出家・串田和美が主宰する劇団「自由劇場」に裏方として出入りするようになった。ときは1960年代後半。間もなく大学紛争の混乱に巻き込まれ、学業への興味を失った。劇団の方向性にも疑問を持ち、演劇とも距離を置くようになった。そして笹野は、なんと船乗りになったのだ。

 あのころお金がなくても外国に行ける方法は、船乗りだったんです。好景気の時代で人手が足りないから、未経験の私でも雇ってもらえた。おもしろかったんですよこれが。性に合ったんでしょうね。


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