1968年に「山谷ブルース」でデビューし、“フォークの神様”と呼ばれるようになった岡林信康
1968年に「山谷ブルース」でデビューし、“フォークの神様”と呼ばれるようになった岡林信康
岡林自身が「今まで発表してきた曲から、私自身の森羅万象を表現した」と語る『森羅十二象』(フジ/ディスクユニオン ONL11)。2枚組LP(同 ONLR11)もある
岡林自身が「今まで発表してきた曲から、私自身の森羅万象を表現した」と語る『森羅十二象』(フジ/ディスクユニオン ONL11)。2枚組LP(同 ONLR11)もある

 岡林信康がデビュー50周年を記念する『森羅十二象』を発表した。岡林自身が選曲したセルフ・カヴァー・アルバムで、矢野顕子、坂崎幸之助、サンボマスター、山下洋輔らがゲスト参加。“フォークの神様”の半世紀をたどるベスト盤的な内容になっている。

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 シングル・デビューは1968年9月。東京・山谷で過ごした体験をもとに日雇い労働者の思いを歌った「山谷ブルース」だった。しかし、実際にはそれに先立って用意された幻のデビュー曲があった。

 ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が話題を集めていた67年暮れのこと。滋賀県の教会で開かれた高石ともやらによる反戦集会で、岡林は自作のメッセージ・ソング「くそくらえ節」と「ガイコツの唄」を披露し、強烈な印象を残した。そのうわさはたちまち広がり、ラジオ関西が翌年2月、岡林の曲をオンエア。多くの聴衆の話題と関心を集めた。

 岡林がデビュー曲として録音したのは、ほかでもない、「くそくらえ節」を改題した「ほんじゃま おじゃまします」だった。ところが、歌詞の内容が問題視されて発売が見送られ、結局、B面に収録されていた「山谷ブルース」で、デビューしたのだった。

 政治や社会を批判する時事的な作品を中心に歌っていたため、“反戦フォークの旗手”“フォークの神様”などと称された。後に岡林が語るには、無意識のうちにそれらしく振る舞おうと背伸びし、ファンの期待に応えるべく無理を重ねるうち、己をなくしていったという。

 デビュー以来の殺人的なスケジュールや狭義のフォーク・ファンからの批判から逃れて活動を一時休止。ボブ・ディランに傾倒してロックへの転向を模索し、細野晴臣らのはっぴいえんどを従えて活動を再開したが、それも1年余ほどで休止し、農耕生活に入った。

 その間、録音活動は継続し、美空ひばりに曲を提供したり、自身が歌う演歌のアルバムを発表したりした。日本民謡のリズムに着目し、独自のロック“エンヤトット”も実践してきた。

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小倉エージ

小倉エージ

小倉エージ(おぐら・えーじ)/1946年、神戸市生まれ。音楽評論家。洋邦問わずポピュラーミュージックに詳しい。69年URCレコードに勤務。音楽雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン(現・ミュージックマガジン)」の創刊にも携わった。文化庁の芸術祭、芸術選奨の審査員を担当

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