僕は、芸能界は顔さえよければどこでもスターになれるって思い上がってたから、「松竹に行くよ」って。ただ、後援会長で作家の村上元三先生からは「スターは祭りのみこしだ。みこしが勝手に足出して歩き始めたら、失格だ」と反対された。おっしゃるとおり、松竹には4年ほどいて、30本以上の作品に出たけど、一本もヒットしなかった。

 当時の僕には、日活のアイドル路線が合ってたんですね。ただ、兄貴と違って大根だったからアイドル的人気がなくなったらそこでおしまいのはず。今日まで役者を続けていられるなんて奇跡ですよ。

――その間、兄の長門は今村昌平監督の『にあんちゃん』や『豚と軍艦』などに出演し、演技派としての評価を高めていった。

 世間からは「兄は芝居がうまいが、弟は顔がいいだけのド大根」ってののしられた。たしかに兄貴には、天才的なうまさがあった。

 大根の弟にとって兄の存在は圧力だった。しかし、まねのしようがない兄の個性ある役者っぷりがあったからこそ、僕も自分のやり方を探し続けることができたわけです。

――一方、兄の長門も弟を意識していた。1969年、デヴィ夫人との不倫熱愛が報じられ、世間の注目が弟に集まったときのことだ。

 女性週刊誌の表紙に「結婚か!?」なんて書かれてね。愛してはいたけど、結婚する気持ちはまったくなかった……。僕は芸能記者たちを相手にしなかったが、兄貴は記者たちを応接間にあげて、紅茶まで出してもてなすから、みんなが集まる。

 さらに、兄貴は「あの二人は結婚するよ」なんて、いいかげんなリップサービスまでする。そんな些細なことでも、僕の人気を落とそうとする敵意を持っていたんだ、と驚きましたね。

 この件で僕は「嫌いな役者日本一」にランクされちゃったのが、つらかった。かわいがってくれた監督まで「今はちょっとねえ」と使ってくれない。仕事が一本もなくなった。

――だが、この出来事が、役者としての転機となる。二枚目を脱し、名優としての道を歩み始める。

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