津川雅彦(つがわ・まさひこ)/1940年、京都府生まれ。出演した作品は、本人も数え切れない。マキノ雅彦名義で映画監督も。「一時期、若い俳優や監督を連れて、よく祇園とかに遊びに行きました。僕が後輩に伝えられるのは、遊びの大切さぐらいですから」(撮影/加藤夏子)
津川雅彦(つがわ・まさひこ)/1940年、京都府生まれ。出演した作品は、本人も数え切れない。マキノ雅彦名義で映画監督も。「一時期、若い俳優や監督を連れて、よく祇園とかに遊びに行きました。僕が後輩に伝えられるのは、遊びの大切さぐらいですから」(撮影/加藤夏子)

 もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は俳優の津川雅彦さんです。

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 六つ上の兄貴が、最大のライバルでした。俳優長門裕之という兄がいなかったら、人生はぜんぜん違うものになっていたでしょうね。常に兄貴の存在が、私の中にはありました。

――深く絡みあい、対になるような二つの人生。そういう意味で、俳優津川雅彦にとっての「もう一つの自分史」は、兄・長門の存在なしには語れない。父は戦前の大スター沢村国太郎、母も元女優という芸能一家に生まれたが、本格的な役者の道に進ませたのは兄だった。

 中学生のころは、役者という仕事に魅力を感じられなくて、新聞記者になりたかったんです。ならば早稲田大学に入りたいと、付属の早稲田高等学院に入学しました。

 ところが、高校2年生のとき、日活から『狂った果実』に出ないかという話が来た。僕は断ったんだけど、兄貴に説得されたんです。

「この映画に出たヤツは必ず人気が出て俺のライバルになる。おまえがこれ一本で役者を辞めてくれたら、結果的にライバルを一人つぶすことができるんだ」って。兄貴は、すでに同じ石原慎太郎さん原作の『太陽の季節』に出て、人気者になっていました。……で、兄貴を助けるために「これ一本だけ」と引き受けた。

――映画は大ヒット。共演した石原裕次郎とともに人気スターになった。

 雑誌社からかかってくる電話もほとんどが僕宛て。チヤホヤしてもらえるのがうれしくてね。一本だけで辞める約束も、新聞記者になりたいとの志も、すべて吹っ飛んじゃった。

 もちろん、兄貴は面白くない。家の中は険悪なムードになり、とうとう兄貴は「日活を辞めて松竹に行く」って言い出した。ところが、兄貴は後輩やスタッフに好かれてたから止められて、「約束を破った津川が出ていけばいい」って話になった。

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