8年におよぶアメリカ生活のため、手紙などの資料は限られる。加えて教員という職業からか、あまり表に出たがらない性格も影響したようだ。

 こんなエピソードがある。

「父の京都時代の同僚や教え子と今も文通しているけど、賢治の話は聞いたことがなかったというんです」

 そういって小菅の子息で元栃木県副知事の充氏は首をひねると、こう続けた。

「私は昭和15(40)年小学校入学ですが、2年生の時に映画『風の又三郎』を学校で見せられたんです。中身は覚えていなかったけど『お父さんの友達が原作を書いたんだよ』と教えられた。でも私自身、当時は賢治に興味がないから、それで終わり(笑)。それ以外、賢治について父と話した覚えはありません。今になってもっと話を聞いておけばよかったと思います」

 それでも研究会の人には求められて話をした。たった一度とはいえ講演会にも参加している。なぜなのか。おそらく小菅にとって賢治は特別な存在で、同じ思いを持つ人にしか語りたくなかったのではないか。

 大正15年に帰国した小菅は新婚旅行のついでに花巻の羅須地人協会に住む賢治を訪ねている。その時の様子を杉田氏がいう。

「奥さんに聞いたら、賢治はどてらみたいなものを着て生活は厳しそうだったけど、まるで少年のように夢中になって小菅さんと話し込んでいたそうです」

 昭和8(33)年に没する賢治の、小菅が見た最後の姿だった。

 セミナーで公開された肉声は約20分。ラストに「雨ニモマケズ」を朗読した彼は、こう締めくくった。

「これは賢治が描いた人間の理想像です。これに向かって賢治は精進し、励まし、近づこうとした。あるいはひとりでも多くの人がこういう人になりたい、ならせたいという念願を持っていたのではないかと思います。非常に地味でまじめで、縁の下の力持ちというようなことを自ら進んで実行し、一生をささげたものだと思っております。結論として賢治は詩人であり哲学者であり、宗教家で日蓮の信者であり行者であった。こう私は見ております」

 友への思いが心に響く。

週刊朝日 2017年9月1日号