1968年の宮沢賢治研究会で講演する小菅健吉=小菅充さん提供
1968年の宮沢賢治研究会で講演する小菅健吉=小菅充さん提供

 盛岡高等農林学校(現・岩手大)で詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)と同級生だった小菅健吉(1897~1977)が、68年に宮沢賢治研究会で講演したときの録音が初公開された。在学中に賢治らとともに文芸同人誌「アザリア」を立ち上げた親友が語る、賢治の素顔とは──。

 民間団体「栃木・宮沢賢治の会」が6月3日、宇都宮市で開催したセミナー。そこで賢治の盟友・小菅健吉の貴重な肉声が初公開され、約130人の賢治ファンが耳を傾けた。

 小菅は栃木県出身の教育者で、賢治とは盛岡高等農林学校の同級生である。賢治が文学活動を始める契機となった文芸同人誌「アザリア」を3年時の大正6(1917)年に仲間12~13人と創刊。俳句や短歌、短編、評論などが収められた同誌の巻頭言「初夏の思ひ出に」を任されたのが小菅(筆名・流るゝ子)だった。

「初めに断っておきますが、当時、お互いを呼びあうときは賢治さん、あるいは宮沢さんと『さん』づけでしたが、今日は賢治と呼びます」

 と前置きしてから録音テープの講演は始まった。

「賢治は(学校に)入った時から級長で、2年、3年の時には特待生でした。クラスで問題が起こると、先生との折衝とか嫌な顔もしないで私たちのわがままな要求を先生の所へ持って行ってくれました」

 頼りがいがある一方、孤独な面もあったという。

「賢治は法華経に凝っておりまして、部屋で一人暗唱していることもありました」

 そんな二人が意気投合したのが登山だった。賢治は土曜の授業が終わると、マントを持って一人、岩手山に向かった。ふもとの山小屋に泊まると朝から山に登って日曜日の夜に帰ってきた。それを繰り返していると聞き、同じ趣味を持つ小菅も姫神山や七ツ森などを一緒に歩くようになった。

「アザリアのメンバーが集まって発行の会を開いたときは、夜遅くにこれから歩こうじゃないかと、賢治と河本義行君、保阪嘉内君、それと私の4人で出かけて、ホトトギスの鳴く雫石、あるいは小岩井農場あたりを夜通し歩いて帰ってきたこともありました。山の中を懐中電灯で照らしながら大声を出してお互いを呼びあい、真っ暗な山の中を歩いていったのが今更のように思い起こされます」

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