夜中まで雑誌に掲載する作品の選定、批評などで激しい意見交換をしたのだろう。高揚した気持ちを抑えきれず山登りに出かけた、この4人がアザリアの中心メンバーで、これを「馬鹿旅行」と呼び、道中を俳句や短歌で詠んだ。

 セミナーにはパネリストとして賢治の実弟の孫・和樹氏、アザリアのメンバー潮田豊の子息・悦穂氏、小菅の子息・充氏に加え、宮沢賢治研究家の杉田英生氏も壇上に並んだ。録音テープは杉田氏が提供した。

「宇都宮の会員の方々が熱心で、何か協力できないかと。それで地元出身である小菅さんの肉声を出そうと思ったんです」

 人前で賢治について語らなかった小菅が昭和43(68)年に唯一参加した、宮沢賢治研究会の講演会で録音されたものだ。

「私は肉声の録音があることすら知らなかった」という栃木・宮沢賢治の会・栗原俊明代表は、

「公開の決定が直前で、チラシの段階ではプログラムになかった。会場で初めて肉声のことを知った研究会の方々も驚いていましたよ」

 会場を訪れていた吉村昭記念文学館学芸員で小菅健吉研究家の深見美希氏は感動で涙があふれたという。

「私が抱いていた小菅さんのイメージはストイックに厳しい創作活動をした方だと。ところが肉声からは、おおらかで仲間と表現しあい支えあう、青春を謳歌(おうか)する若者の姿が浮かんだ。まるで生身の小菅健吉が目の前に浮かんでくるような感動がありました」

 小菅は盛岡高等農林学校卒業後、土壌細菌学研究のために渡米。大正15(26)年の帰国後は愛媛県や京都府に教諭として赴任。昭和24(49)年から郷里に戻り、定年後の同41(66)年まで教壇に立ち続けている。

 実は、アザリアの中心メンバー4人で、この小菅の研究が一番遅れているのだ。

 前出の深見氏がいう。

「ほかの3人に比べると資料が少なくて、一番知られていない存在なんです」
 
理由を杉田氏が語る。

「卒業してすぐアメリカに行ってしまったのもありますが、小菅さんが宇都宮にいることを会員が知らなかった。それが昭和41年、研究会で花巻の(賢治の実弟)清六さんに会いに行ったとき、宇都宮に小菅健吉さんがいると教えられたのがきっかけですね」

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