重工は、宮永氏の社長就任前までの20年近く、売上高が2兆~3兆円台前半で推移した。事業の入れ替えもわずかで、成長が止まったまま。これを変えようとした取り組みの一つが、事業所制解体だった。

 同社は相模原、名古屋、神戸、広島、下関、長崎などに散らばった事業所単位で長らく経営されてきた。経理システム、給料の明細表、社内報も事業所ごとに違う。「重工は中小企業の集合体」と揶揄(やゆ)され、本社の役員より事業所長の権限が大きいことさえあった。

 この結果、重複する事業もあったが、国内市場が右肩上がりの時代は問題なかった。しかし、国際競争が激化し、資本効率重視の経営などが求められてくる。

 そこで、事業所制解体をめざしたのが、宮永氏の2代前の社長、佃和夫氏(現相談役)。製品ごとの事業本部制導入をもくろんだが、実現できなかった。後任の大宮英明氏(現会長)がようやく事業本部制を導入、発展的に解消する形で宮永氏が今のドメイン制度を採り入れた。

 12~15年にはガスタービンやフォークリフトなど中核事業との相乗効果が高い分野で、買収戦略を強化。10社を子会社化し、売上高を約8800億円増やした。中核でない事業は他社への譲渡を加速した。宮永氏の戦略は「売り上げを増やして投資余力をつけ、ガバナンスも変えて、競合の米GEや独シーメンスに追いつく」ことだった。

 しかし、本社主導で目まぐるしく進む構造改革に、「地方分権体質」が染みついた現場組織がついていかない。それが迷走の一因のように思えてならない。

 かつて宮永氏と同じ苦しみを味わったのが、松下電器産業(現パナソニック)社長の中村邦夫氏(現相談役)。「破壊と創造」を掲げ、創業者・松下幸之助以来の事業部制を解消、03年に子会社も含めて14の事業領域別にくくり直すドメイン制を導入した。

 中村改革と宮永改革は、発想と手法が似ている。

 当時の松下も重複事業があり、資本効率を追求する経営スタイルから、事業部制を廃止した。パナソニックへの社名変更後も、売上高は7兆円前後が長く続いて成長から取り残された。

 中村改革以降、組織いじりとリストラが続く。成長軌道に乗ったとは言えず、中村氏が経営トップから退くと、事業部が復活した。

 戦後、トヨタ自動車がクルマで日本経済を牽引した「大衆製品の横綱」ならば、三菱重工は国家や産業向けの大型製品で成長を支えた「重厚長大製品の横綱」。一時は700超もの製品を抱え、「機械のデパート」と呼ばれた。巨大企業は再生するのだろうか。

週刊朝日  2017年6月9日号