<鈴木青年が炊いたご飯などをすすめると、「オレはこんなものを持っている」といって少尉は野豚の干し肉らしいものを、例の魚網のザックから取り出してきた。「島民が野豚や水牛を飼っている牧場のサクの鉄線を切ってワナを作れば、簡単に捕れるのだ」>

 小野田は缶詰のフタの裏を鏡代わりにし、手製のハサミでひげや頭髪を整えていた。鍋にコプラの油を溶き、焼き飯をつくった。野生のバナナも焼いて食べた。ピカピカに磨かれた銃は発見時も使用可能だった。

 陸軍中野学校二俣分校で学び、「残置諜者」として潜伏していた小野田は「上官の命令がないと山を下りない」と主張。鈴木が3月にかつての上官を伴って再訪し、ようやく帰国を決意した。

 帰国した小野田は76年に結婚。ブラジルで牧場を営みつつ、「小野田自然塾」で日本の子どもたちに野外生活を伝授する活動を続けたが、2014年に他界した。鈴木はその後、ネパール・ヒマラヤで雪男の捜索に熱中したが、86年に遭難死している。

 70年代の超弩級(どきゅう)ニュースの一つにあさま山荘事件がある。連合赤軍と警察の攻防はテレビ中継され、全局を合わせた最高視聴率は89%強。全国民が息をのんで先行きを見守った。

 その現地ルポが72年3月3日号の「“革命”と“悪臭”にまみれた『連合赤軍』の終末」。銃を持って立てこもった犯人たちに、人質の女性の夫が呼びかける。

<泰子、生きているか。いま、お父さんと玄関まで来ている。元気だったらひと目でいい、ベランダへ出て姿を見せてくれ>

 機動隊が突入するまで、籠城(ろうじょう)戦は10日間に及んだ。何しろ極寒だった。

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