利通は家族、特に子どもに対してはとてもやさしくふれあいを喜び、子煩悩で可愛がってくれた、と祖父・利武が話してくれたことがあります。

 利通は使節団で欧米諸国を訪れて海外の諸事情を間近に見て、国力増強の必要性を強く感じました。そのためには産業に力を入れようと西南戦争の最中に第1回内国勧業博覧会を開催します。また農業の発展も急がなくてはと思っていた矢先、福島県で始まっていた開拓事業を知った利通は、この事業成功に腐心し、郡山市で国直轄の農業水利事業第1号、安積開拓を推進します。そのさなか利通は暗殺されますが、利通の遺志を受け継ぎ、工事の開始から3年後の明治15(1882)年に完成します。夢がかなったと言ってよいのではないでしょうか。

 明治維新において、自分の役目を果たすために仕事に真摯に取り組み、そしてやり遂げた。道を拓き、その道を次の世代に託して旅立った、そう思っています。次男の牧野伸顕、跡を継いだ三男で祖父の利武、学者であった父・利謙は、それぞれ違った形でしたが、利通の子孫としての役目を果たしたと思います。私の役目と言えば、まだ手元に残っていた資料を千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ寄贈したことでしょうか。それをきっかけにすでに納めてあったものを含めて15年に「大久保利通とその時代」展を開催していただきましたが、常に側にいる、つまり利通との距離感など考えたことはありません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

週刊朝日 2017年2月17日号