田原総一朗「『日本』ばかりが強調されるリオ五輪報道に覚えた不安」
連載「ギロン堂」
日本過去最多のメダル獲得数で盛り上がったリオデジャネイロ五輪。しかし、その報道を「ナショナリズムの臭いが強すぎるのではないか」とジャーナリストの田原総一朗氏は危惧する。
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連日、テレビのほとんどの番組が大きく報じ、新聞も大きくスペースを割いたリオデジャネイロ五輪が閉幕した。
南米初の五輪は、言ってみれば困難の連続だった。
選手村の設備不良でオーストラリア選手の入村が遅れたり、輸送バスが行き先を間違えて、競技時間が変わったりしたこともあった。
強盗を追った選手が殴られる事件も起きた。だが、ブラジル自体の政情不安の中で開かれた大会であったが、テロなどの深刻な事件は発生しなかった。
そして、日本選手団は、金12、銀8、銅21の計41個のメダルを獲得した。これは過去最多である。
こう書きながら、実は私は、五輪のテレビ中継や新聞報道を見ていて、何とも気になったコトがあった。
「日本が勝った」「日本が危ない」などと、日本という言葉が乱発されたことだ。
国際オリンピック委員会(IOC)が採択した五輪憲章は、次のように明記している。
〈五輪競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉
だが、どの競技でも、日本の選手が登場して活躍する中継には、必ずと言っていいほど選手名の上に「日本の」という形容がついた。あきらかに、選手間の競争ではなく、日本の〇〇と、外国選手たちの競争であった。
それは「日本の」を入れたほうがわかりやすいし、力も入る。入れたい気持ちはよくわかる。しかし、「日本はメダル圏内」「メダルは銀か、金か」と、メダル至上主義のような表現がやたらに多かった。ナショナリズムの臭いが強すぎるのではないか。特にロンドン五輪以後はその傾向が強まっていて、危うさを感じる。
こんな危惧を抱きながら、それは私たちの世代の時代遅れの感覚かな、とも思っていた。
