26歳のとき、キャバレー経営者として独立した。

「銀座ハリウッド」をオープンさせたのを機に、首都圏を中心に20店舗まで直営店を拡大した。従業員は3千人を数え、キャバレー・料亭部門で所得番付全国1位にまで上りつめた。

 もちろん、いわゆる「お触り」などのいかがわしいサービスは一切ない。大人のための、紳士のための健全な社交場をつくってきたことの社会的功績は大きい。

「果報は寝て待て、と商運が回ってくるのを待っているようでは駄目。自らつかみにいかないといけない」と商売のコツを説く。機知と、ときたまのはったり。浮世絵や幽霊画の世界的コレクターでもあり、美術評論家としても名高い。

 政財界から芸能界まで、幅広い人脈を培った。「キャバレーの支配人は忠臣であれ」がモットー。主君のために命を賭して働く忠臣の立場である。自分を知ってくれる人には絶対そむかない。「山陰の戦国大名・尼子氏に仕えた山中鹿之助のようにならないとね」というのである。

 思い出に残る客に福田赳夫元首相がいる。群馬県出身のホステスをテーブルの周りにつけたら40人にもなった。「群馬の女性ばかり雇っているのか」と驚いていたという。作家の遠藤周作さんもなじみ客。福富さんは小説『快男児・怪男児』のモデルにもなった。

 閑話休題。ここでキャバレーの歴史をたどりたい。福富さんの著書『昭和キャバレー秘史』(河出書房新社)によると、大正から昭和初期にかけて人気を呼んだ「カフェー」がルーツという。新鮮なお色気を売りものにした、女給さんの白エプロン姿が評判を呼んだそうである。昭和15年、銀座三越裏にできたのが「美松」というキャバレー。フランス語の「cabaret」から来たという。

 終戦から2週間もたたずして、進駐軍特殊慰安施設協会(RAA)という団体ができた。米兵による日本人女性への暴行事件が多発しており、キャバレーやダンスホールをつくろうというのが狙いだった。

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