キャバレーはステージやダンスフロアを備え、風営法で「1号営業」に属する。戦後復興とともに、接待などで使うサラリーマンが増え、「社用族」という言葉も生まれた。大阪にはアルバイトサロン(通称・アルサロ)と呼ばれたキャバレーも登場し、昼から営業していた。

 キャバレーが「大人の社交場」と称されるのは、ダンスができる広いフロアと華やかなバンドの存在だろう。ジャズやムード音楽、ポップスを聞きながら、お目当てのホステスとグラスを傾ける。バンドはレベルが高かった。朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた昭和28年を境に、キャンプ回りのバンドがキャバレーに出演するようになり、実力を競ったのだ。

 渡辺晋(のちの渡辺プロダクション創業者)はシックス・ジョーズというバンドを率いて横浜から銀座に来た。ドラムはフランキー堺、歌は江利チエミ。無名時代の八代亜紀、ちあきなおみ、小林幸子もキャバレーを回って歌唱力を鍛えた。まさにキャバレーは彼女たちの修業の場でもあった。

 あのころは、なじみのホステスをくどくため何度も通った客が多かったという。でも、純情だったのだろう。「酒でも飲まないと女性と話もできないような大正から昭和ひとケタ世代の客がキャバレーを支えた」と福富さんも語る。

 キャバレーはしかし、石油ショックや新風営法施行(昭和60年)、さらにキャバクラの台頭やバブル崩壊などの影響で下火に。何より、娯楽が多様化し、遊び方自体が変わった。「大箱(おおばこ)」と呼ばれる大型キャバレーは現在、数えるほどしか残っていない。「銀座ハリウッド」もすでになく、都内では現在、北千住店と赤羽店の2軒が「ハリウッド」の名前を引き継いでいるだけだ。

 4年後の東京五輪。日本の夜のネオン街はどうなっているだろうか。キャバレーよ、輝きをもう一度!

週刊朝日 2016年8月26日号