「因果もの」とも呼ばれ、「マムシの執念、報いまして……、出来た子どもがこの子でござい。いらはい、いらはい」という口上もあった。「大イタチ」という見世物は、大きな板に赤いペンキ(血)でイタチの絵を描いてあるだけだった。馬鹿馬鹿しい、というなかれ。昭和というのは、おおらかな時代だったのだ。

 寅さん映画にも出てくるが、「ネンマン(万年筆)売り」という商いもあった。路上に並べられた泥だらけの万年筆。勤め先の工場が火事で倒産し、焼け跡から使える万年筆を掘り出してきたという経緯を語り、妻や子を抱えて生活が苦しいという窮状を切々と訴える。客の同情を買い、モノを売るという手段だ。万年筆は粗悪品が多く、すぐに使えなくなった。

 角帽に詰め襟の学生服姿でしくしく泣いていたテキヤもいた。「どうしたんだ?」と通行人が心配して声をかけると、「ハハキトク」と書かれた電報をポケットから取り出す。「切符を買うゼニ」をせしめるニセ学生である。

「千里眼」という占いのような商売もあった。紙に質問を書かせる。「私はなぜ女にもてないのか」。その紙をロウソクであぶると「鏡をよく見ろ」と文字が浮かぶ。実は、あらかじめ言葉が刷り込んであった。

「そんな遊びを楽しむ心のゆとり、いまのニッポンに必要なんじゃないですか」

 私にそう教えてくれたのは、俳優の故・小沢昭一だった。「だまし」「だまされるのは」のは織り込み済み。悪質きわまりない「オレオレ詐欺」とは違う。

 ところで最近、テキヤの花形である見世物小屋を見かけない。昨年11月の「酉(とり)の市」。東京・新宿の花園神社で会った興行主は「人権侵害だ、動物虐待だとたたかれ、できないのです」と言っていた。お化け屋敷なら開くことができるが、人形を置いておくだけ。実際の人間が演じる「ヘビ女」や「タコ娘」はいない。

 見世物小屋は、様々な事情で働き先が見つからない人や身寄りがない人、体に障害のある人たちにとっての職場でもあった。「自分の体を使って商売するのに何の問題があるのですか」。興行主の訴えが胸に響く。

 あやしげな昭和の風景も、私たちの記憶のかなたに去ってしまうのだろうか。

週刊朝日  2016年6月10日号