「テキヤ」は「香具師」と書いて「やし」とも呼ぶ。単なる露天商ではない。道端での口上や芸をもってカネを稼ぐ職能人である。

 諸説あるが、仏教の教えをわかりやすく説きながら香や仏具を売り歩いた武士が「香具師」や「野士(やし)」と呼ばれるようになったのが始まりとされる。薬の行商人が「薬師(やくし)」といわれ、縮まって「やし」になったともされる。

 それが「テキヤ」と呼ばれるようになったのは明治以降らしい。「やし」が「ヤー的(てき)」という隠語として使われるうちに逆さになったという。当たれば大きな利益を得ることから、的に矢が当たることになぞらえ「的屋」になったという説もある。「目の前の通行人はすべて敵と思って商売せよ」との意味から生まれた、という説もなかなか説得力がある。

 佐賀に住む古参のテキヤは、バナナの競り売りで財を成した。色つきや形を見せながら「サァサァ買(こ)うた、サァ買うた」などと七五調の節をつけ、競るようにして売ったのである。大卒初任給が月1万円強だった昭和30年代、1日2トンのバナナを売り、2万円稼いだこともあった。8時間立ちっぱなしで800~1千房も売ったそうである。

 だが雨が降れば雨に泣き、風が吹けば風に泣く。失業保険も退職金もない。明日をも知れぬ人生。そんなテキヤの守り神は、『香具師の生活』(添田知道著)によると、中国の神話上の存在「神農」である。百草をなめて医薬を知り、路傍に市を開いて交易を民衆に教えたとされる。同書が出たのは、東京五輪が開催された64(昭和39)年。都会で暮らす人々にとってテキヤのような生活は「古くさい」とみられていたのではないか。

 とはいえ、舌先三寸で人の足を止めさせるテキヤのすごみに、のちに「フーテンの寅さん」で国民的な人気者になる渥美は魅せられた。私が子どものころに見た「ヘビ女」たちもテキヤの世界では階級が高かった。「タカモノ(高物)」と呼ばれる仮設興行の世界に属し、多くの人を集めるので祭りの花形とされていたのだ。

次のページ