これに対して、家康は日本史上空前の策でもって応じた。日本の人口を東へ北へと移すという「大工事」がそれである。中国や朝鮮からの距離を増し、目を違う方向へと向けさせる。

 また、倭寇の、ひいては水軍の人材供給源だった半農半漁の貧しい民衆を「転職」させるために、日本各地の沿岸部で大々的な埋め立てを行った。

 戦国・織豊時代と江戸時代とで、日本社会が突然変わったと感じさせられるのは、実はこの点だ。

 徳川政権が出現するとともに、倭寇が消滅してしまったのである。京都を上回る大都会、のみならず同時期における世界最大の都市としての江戸という異様な現象も、人口の東方移動という倭寇の再発防止、中国、朝鮮との接触の減少という大戦略の文脈を考えるとわかりやすくなる。

 さて、自らが世を去って400年目の日本を見た徳川家康の霊は、さぞや喜んだであろう。

 紆余曲折を経たとはいえ、今では日本の人口はわずかながら新潟、長野、静岡までの東半分が、それ以西を上回っているからである。秀吉の唐入りの記憶が希薄な東日本が多数派となったことで、現代日本としては近隣諸国と良好な関係が築きやすくなった。

 戦国の余燼(よじん)の冷める間もない1615年に宣言された「元和偃武(げんなえんぶ)」は未来志向の宣言だったが、400年を経てやっと完成したのである。(了)

週刊朝日 2016年3月11日号