「比島決戦」とは何だったのか(※イメージ)
「比島決戦」とは何だったのか(※イメージ)

 天皇、皇后両陛下が1月26~30日にフィリピンを訪問し、先の大戦で犠牲になった日比両国の戦没者を慰霊する。50万人の日本兵、100万人のフィリピン人が亡くなったとされる「比島決戦」とは何だったのか。ノンフィクション作家の保阪正康氏がその真相に迫った。

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 太平洋戦争はおよそ3年8カ月続いたが、その間日本軍将兵の戦死者はどれほどになるのか。明確な数字はだされていない。なにしろ終戦直後に、日本の軍事・政治指導者たちは史料や文書を焼いてしまったからだ。

 自らの責任を回避するために、一切の記録を無にしてしまうという行為は、歴史に対する背信行為といっていいであろう。太平洋戦争の解明に手間どるのは、こうした暴挙のためといっていい。

 それでも厚生省(現・厚生労働省)が各種の調査を行って「地域別戦没日本人数」をまとめ、昭和51(1976)年にひとまずの数字を公表している。フィリピン(比島)戦では実に51万8千人が戦死している。個別の地域ではもっとも多い(中国本土、旧満州などを加えて「中国戦線」とみれば70万人となり、フィリピンより多い)。

 これだけの日本軍将兵が戦死したわけだから、中国・東南アジア各国で犠牲になった民間人は1千万単位になるというのも容易にうなずける。とくに比島戦では10カ月の戦いで100万人近くの犠牲者が出たといわれている。戦後のある時期はフィリピンの対日感情が極端なまでに悪化していたことはよく知られている。

 一口に比島戦といっても、この戦いは二つの局面から成り立っている。一つは昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に、日本は比島の攻略作戦を進めた。この中心にいたのは第14軍(司令官は本間雅晴)で、ルソン島やミンダナオ島などを空襲する一方で、主力部隊はマニラを目ざし、17年1月2日にはこの地を制圧している。

 米極東軍司令官のD・マッカーサーとその幕僚たちは、マニラからオーストラリアに脱出し、そこで指揮をとっている。

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