レイテ島の戦いは大岡昇平の『レイテ戦記』に詳しい。兵士たちは戦闘よりも次々と餓死・病死している。輸送船が沈められたこともあり、レイテ戦での日本軍の戦死者は10万人近くに及んでいる。

 米軍の精鋭部隊は、次いでミンドロ島に上陸、そしてルソン島を目ざしている。第14軍の司令官に就任した山下奉文と参謀長の武藤章は、ルソン決戦を目ざし、自活自戦・永久抗戦の態勢を確立して決戦という案を考えた。昭和20年1月9日、米軍は20万人ほどの大軍でルソン島に上陸している。このとき日本軍には「尚武」「振武」「建武」の三つの集団があり、その兵力は29万人に達していた。兵員は米軍を上回っていたにせよ、その装備は比較にならないほど劣悪な状態であった。武藤の回想録『比島から巣鴨へ』は、この上陸時にも「我が勇敢なる漁撈隊(爆弾を載せた小舟艇で肉薄攻撃する特別部隊)は九日夜襲撃したらしい。敵船団は一斉に点燈して右往左往しているとの報告もあった」と書かれている。

 このころ米軍機は、ナパーム弾を用いるようになり、日本軍兵士は陣地にあって逃げまどうのみで、戦闘の体をなさない状態になっていった。

 戦闘はしだいにマニラに及んだ。山下は市街戦を避けるために、マニラをオープン・シティ(非武装都市)にしようと司令部をマニラからルソン島北部のバギオに移している。

 だが一部のマニラ防衛部隊は、この命令とは別に米軍との間で市街戦を行っている。市内のビルを奪いあうような戦いで、マニラはまたたくまに瓦礫の山と化している。20日間に及ぶ市街戦で、10万人以上の市民が犠牲になったとされている。2月下旬には、マニラにとどまっていた2万人近くの日本兵が全滅した。

 日本軍兵士は、自活自戦・永久抗戦の命令のもとに、ジャングルに逃げ込んで戦闘の意思を示した。最終的にはルソン島のもっとも高い山であるプログ山一帯の山岳地帯に入っている。食糧自活のために兵士たちは農作業を行っている。その食糧をめぐって日本軍兵士たちの争いも起こった。

 昭和20年8月15日、第14軍司令部のもとにも日本敗戦の報が届いている。山から降りた山下は9月3日に降伏文書に署名した。

 比島戦は戦死者が多かっただけでなく、日本軍の戦争の戦い方がもっとも象徴的にあらわれていた。50万人を超す兵士一人一人の死は、戦闘死・特攻死・病死・餓死・溺死などさまざまであり、その死の意味は重い。

 天皇と皇后が、今なおそのことを考え続けて追悼と慰霊を続けていることに、私たちは改めて思いを深める必要がある。(敬称略)

週刊朝日  2016年2月5日号