開戦当初、日本軍は破竹の勢いで進み、バターン半島で抵抗を続ける米国を中心とする連合軍を破り、4月にはコレヒドール島で連合国との間で無条件降伏の文書を交わしている。この折、司令官の本間は捕虜の数を2万5千人と想定していたが、実際には7万6千人(J・トーランドの『大日本帝国の興亡』)で、捕虜収容所までの100キロを歩くいわゆる「死の行進」によって2万人近くが餓死・病死したとされている。

 もうひとつの比島戦は、この最初の戦いから2年半後の昭和19年10月20日に、米軍の地上部隊10万人余がレイテ島のタクロバンに上陸した。日本の政府が天王山と位置づけた戦闘でもあった。

 レイテ島に米海軍の輸送艦や支援の艦船など700隻が姿を見せて日本軍に物量の差を見せつけた。この際、マッカーサーは、「フィリピンの人たちよ、私は今帰ってきた」と放送している。

 当時の日本は実際には戦争を続ける国力を失っていた。米軍はこの年7月から8月にはマリアナ諸島を次々と制圧して、日本本土への爆撃も容易になっていた。日本軍は辛うじて態勢を立て直し、「捷号作戦」で対抗しようと考えていた。捷1号作戦とはまさに比島方面の防御にあった。しかしそうした作戦には物量が伴っておらず、計画だけが空回りしていた。そこで考えられたのが、神風特別攻撃隊に代表される特攻作戦だったのである。

 米軍のレイテ上陸直前に、大本営はこの捷1号作戦を発動した。これを受けて日本海軍は10月22日からレイテ沖海戦を企図して動き始めた。劣勢だった日本海軍は、囮(おとり)役の艦隊が米機動部隊の攻撃を受けている間に主要艦船がレイテ湾に突入し、米軍の残存艦艇や地上部隊を叩くという案を採用した。こうした判断は、10月10日からの台湾沖航空戦で、日本軍の800機が米海軍の空母11隻を撃沈、8隻を大破し、多数の艦艇を沈めたとの「戦果」に基づいていた。しかしこれはまったくの誤報で、米艦艇は無傷だったのである。

 比島防衛戦は、こうした錯誤のもとで戦われたがゆえに悲劇的であった。レイテ沖海戦は台湾沖航空戦での米軍の残存部隊がレイテ湾に逃げ込んできたとの想定のもとで行われ、無残な形で敗れている。

 当初、大本営はルソン島での決戦を考えていて、レイテ島には1個師(約2万人)しか置いていなかった。レイテ島に上陸した米軍地上部隊は敗残部隊だからと、レイテに急きょ増派してその部隊を壊滅することを考えたのである。ところが海からの増派部隊は米軍機に叩かれ、やっと7万5千人の将兵が辿りついた。しかし武器弾薬もなく、食糧も不足してすぐに苦戦する状態になっている。

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