没後20年の司馬遼太郎 編集者が明かす最晩年の鬱屈 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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没後20年の司馬遼太郎 編集者が明かす最晩年の鬱屈

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週刊朝日
晩年、司馬さんは日本にも日本人にも少しがっかりしていたのではないか(※イメージ)

晩年、司馬さんは日本にも日本人にも少しがっかりしていたのではないか(※イメージ)

 1996年2月に世を去った司馬遼太郎さん。常に「時代」に対して発言し続けた。晩年、司馬さんは日本にも日本人にも少しがっかりしていたのではないか。

 1995(平成7)年は戦後50年にあたる年で、司馬さんは多忙を極めていた。週刊朝日ムック「没後20年 司馬遼太郎の言葉」に「『戦後50年』の司馬さん」を書いた元中央公論社編集者の山形眞功さんには忘れられない思い出がある。この年の3月末、司馬さんからこんな話を聞いた。

「五十嵐広三官房長官から政府主催の『戦後50年記念式典』で講演を依頼されたんだ。この講演については下書きをする。下書きができたら君にあげるよ」

 山形さんの期待は膨らんだ。

「戦前の『昭和前期』と戦後の『昭和後期』を通しての司馬さんの考えと思いを講演原稿のかたちで読むことができる。一読者としてもうれしかったですね」

 原稿は40枚前後になると、司馬さんは話していた。ところがこの話は結局、幻に終わることになる。時の政府の依頼だったが、一部の政治家のクレームがあったようだ。

「司馬さんはこの年、さまざまな対談や講演をしています。テーマは土地問題、行き過ぎた民族主義と宗教の問題とさまざまでしたが、司馬さんが憂慮していた問題は解決せず、先鋭化しています。2015年は戦後70年でしたが、いまだに戦後50年の村山首相談話をめぐる政治抗争が繰り返されていましたね」

 と、山形さんはいう。


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