昭和59(84)年に那須高原の散策を楽しむ両陛下の姿(代表撮影) (c)朝日新聞社 @@写禁
昭和59(84)年に那須高原の散策を楽しむ両陛下の姿(代表撮影) (c)朝日新聞社 @@写禁
座談会の様子。右から、瓜生さん、牧野さん、岩井さん、神田さん、松野さん(撮影/写真部・岡田晃奈)
座談会の様子。右から、瓜生さん、牧野さん、岩井さん、神田さん、松野さん(撮影/写真部・岡田晃奈)

昭和天皇実録」が完成し、その姿の多くが公表された。昭和天皇。しかし、そこにも載らなかった姿を元学研カメラマン瓜生浩氏(80)、元テレビ朝日宮内庁担当記者の神田秀一氏(79)、元侍従職内舎人(うどねり)の牧野名助(もりすけ)氏(88)、元宮内庁嘱託カメラマンの松野正雄氏(76)、そして司会を務める元朝日新聞編集委員の岩井克己氏(67)の5人が座談会で明らかにした。

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岩井:「昭和天皇実録」が9月に公開されました。しかし、読んでみると、昭和天皇の「肉声」は、ほとんどありません。書かれた動静だけ読めば味気ない。しかし、侍従長の入江相政(すけまさ)さんのエッセーや「卜部亮吾侍従日記」が描き、僕らが見ていた陛下は、失敗もするし怒りもする「おじいさま」です。そこに、お人柄が見える。独特のキャラクターの持ち主でいらっしゃった。

神田:私も、昭和53(1978)年からテレビ朝日で宮内庁担当記者をつとめ、昭和天皇のお人柄を感じました。まさに、そうですね。

岩井:戦前・戦中は大元帥であり、硬派で厳しいところもあった。つまり元大元帥という切り口ですね。一方で、温かみや思いやり、下積みの人に対して配慮を見せる方でした。そこは、天皇の要諦のような気がするんです。よく言われる上流階級の「ノブレス・オブリージュ」とはまた違う、特別なふわっとした温かみでした。

瓜生:随行取材をしていてそれは感じましたね。私は、昭和48(73)年から30年ほど、学研の「皇室アルバム」などで皇室取材に関わりました。昭和天皇は、相手が失敗しても、何もおっしゃらない。ただ一度、石川県の海岸で根の長い植物をご覧になって、「亜種かもしれない」と説明を受けたことがありました。陛下は内心、疑問をお持ちだったのでしょう。翌日、間違いだとわかると、うれしそうな顔をなさっていたが、ご説明役には黙っていました。

岩井:松野さんは、宮内庁の嘱託カメラマンでしたね。天皇や皇族方のお誕生日やご結婚など、「宮内庁提供」とクレジットがつく写真を撮影なさってきた。

松野:嘱託カメラマンは、小西六(現コニカミノルタ)の社員が、代々務めています。昭和22(47)年、宮内庁は「開かれた皇室」をアピールするために、陛下の動向を一般に広めようと考えた。そこで、小西六にカメラマンの推薦を依頼したのです。私は、3代目として昭和49(74)年から平成11(99)年まで25年間にわたり、両陛下や皇族方を撮影してきました。最初に撮ったのは、昭和49年のフォード米大統領が来日したときですね。

岩井:いちばん古くから昭和天皇に接していられたのは牧野さんですよね。

牧野:昭和22年から宮内庁に勤務しました。昭和40年代から、昭和天皇の身支度を整える内舎人となり、崩御まで約42年間おそばに仕えました。

神田:昭和天皇と側近の関係は、非常にフランクでした。入江侍従長など、昭和天皇が居眠りをされると、お座りになっている椅子を蹴ることもあった。

牧野:長時間のご進講の際には、眠気覚ましにお砂糖の入らない、濃いコーヒーを飲んでいただきました。椅子に腰掛けて飲むのは面倒でお嫌らしく、一気にチャッと飲んでおしまいになる。で、「もう、いらないよ」とカップをこちらに寄越す。

週刊朝日  2014年11月14日号より抜粋