直木賞作家の有馬頼義(よりちか)氏を父とする、有馬家第16代当主・有馬頼央(よりなか)氏。父への反発が今の自分の道を決めたと話す。

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 僕が大学生のときに親父が亡くなり、母から「当主として地元の久留米にあいさつしてらっしゃい」と言われました。

 久留米にある有馬家の菩提寺は梅林寺です。小さいころに両親と来た記憶はありました。親父が一番奥で、母がその隣。僕は下座で、平べったい座ぶとんに普通の茶わんでお茶を出される。

 あいさつに行ったときには、一番奥の席に通されました。当主しか使うことが許されない三つ巴の紋がついたぶ厚い座ぶとんに座ると、やはり三つ巴紋入りの高い台のついた茶わんが出てきました。うれしかったですね。これで本当に当主なんだと思いました。

 このころから僕は、親父が否定したものを、逆に肯定しようとしました。祖父以前のことを継承できるような仕事がないかなと思っていたら、東京・日本橋にある水天宮の宮司から、「ここは有馬さんの神社だから後を継いでほしい」と言われました。そこで、神職資格をとり、最初は東京・神田明神で修行をはじめました。5年前から東京の水天宮の宮司をしています。

 水天宮というのは、有馬家ととても関係が深い。久留米城下に安徳天皇と平家一門をまつっていた祠がありました。その祠に2代・忠頼が7千坪の敷地を寄進して直轄の神社にしました。これが水天宮の本宮です。9代・頼徳のときに、江戸の赤羽橋にあった上屋敷に分祀されたのが、東京の水天宮のはじまりです。

 
 神社の社殿前にある鈴に下がっているひものことを「鈴の緒」といいます。水天宮の古くなった鈴の緒をお下がりとしてもらった妊婦さんが腹巻きとして使ったら、ことのほか安産だった。その御利益は評判になったけれども、大名の上屋敷だから入れません。そこで人々は、塀の外からおさい銭を投げ入れた。そんなにご信仰いただけるならと、有馬家は毎月5日、お参りできるように門を開きました。そこでできた言い回しが、「情けありまの水天宮」。「恐れ入谷の鬼子母神」とともに、江戸の2大流行語になりました。

 維新後は、有馬家とともに下屋敷のあった日本橋に引っ越します。僕が宮司になったときの社殿は47年前に建てられたもの。耐震診断をしてもらうと、震度6で倒れるかも、ということでした。建て替えしなきゃねと話していたら、東日本大震災が起こったのです。

 あの夜、無事だった社殿に、泊めてくださいっていう方もずいぶんいらっしゃいました。でも、耐震診断の結果が出ていて、いつまた大きい揺れがくるかわからないものですから、近くの小学校をご案内しました。すごくつらかったですね。だって本来、神社というのは人の心のよりどころとなるべき場所でしょ。

 そんなこともありまして、去年の春から社殿の建て替えをしています。550坪の敷地全体を免震構造にします。こんなとっぴなことをする神社はほかにないでしょう。前例のないことをするのは、やっぱり有馬の血なのかなあ。

 2016年に完成予定です。費用ですか……、数十億円。泣きそうです。でも、今度は何日間でも安心して避難できます。何かあれば飛び込んできてください(笑)。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年8月8日号