同志社大学 礼拝堂(チャペル)昨年、改修工事が終わったばかりの礼拝堂の内部。襄も礼拝したことのある大学のシンボル的存在のこのチャペルでは、礼拝や講演のほか、卒業生の結婚式なども行われていた。バラ窓に見られる素朴なステンドグラスが特徴(撮影/写真部・東川哲也)
同志社大学 礼拝堂(チャペル)
昨年、改修工事が終わったばかりの礼拝堂の内部。襄も礼拝したことのある大学のシンボル的存在のこのチャペルでは、礼拝や講演のほか、卒業生の結婚式なども行われていた。バラ窓に見られる素朴なステンドグラスが特徴(撮影/写真部・東川哲也)

 新年から始まった、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本(新島)八重は戊辰戦争で会津藩が敗れた後、京都で新しい生活を始める。ドラマより先に、八重が暮らした街、夫となる新島襄に出会った京都をたどってみよう。

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 ドラマは現在、明治維新直前の会津(現在の福島県)が舞台だが、八重は26歳のとき、会津から京都へ移り住むことになる。

 なぜ京都へ? 詳しい経緯はドラマを見ていただくとして、八重は結婚離婚を経て、故郷を出て、京都で暮らし始める。八重にとって、京都は第二の人生を始める「覚悟の地」であったろう。

 その京都で八重は、後に同志社大学の創立者となるアメリカ帰りの青年・新島襄と出会い、再婚する。それまでとはまったく違う人生が始まったのだ。

 襄がつくった同志社大学内には、現在も、八重の存命中からあった建物がある。当時はまだ珍しかったレンガ造りの洋風建築は、襄のアメリカ仕込みの進取の精神をうかがわせる。

 ちなみに、同志社大学の前身である同志社英学校を開校した1875年11月29日を挟んで、二人は婚約、結婚をする。結婚式は襄たっての希望で、八重が再婚だったにもかかわらず、京都で日本人初となるキリスト教式で挙げた。襄が八重を、とても大切に思っていたことがわかるエピソードだ。

週刊朝日 2013年2月1日号