「寄席でも選挙でも真打ちは最後に上がるもんだ」

 前落語協会会長で、談志さんの弟弟子だった鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)さんはこう振り返る。

「談志さんと仲がよかった石原慎太郎さんのブレーンに選挙運動のプロがいて、いろいろとやり方を教えてもらったんです。忙しい先輩たちは東京近辺で、私は大阪から九州を回ることになった。じゃあ談志さんは、というと、『オレは北海道へ行くよ』って。夏場の暑い盛りで、北海道は涼しいから。汚ねぇな(笑い)。途中から広島へ飛行機で来て、合流しましたけどね」

 当選後は自民党に入党し、75年12月には三木内閣で沖縄開発政務次官に就任する。しかし、就任まもない翌76年1月20日、沖縄での記者会見で"談志節"が炸裂。サングラスをかけ、二日酔いの状態で会見に現れた談志さんは、記者から公務と酒とどちらが大切なのか問われ、
「酒に決まってんだろ」

 その2日後、発言を弁明するはずだった参院決算委を欠席し、高座に出演してさらに物議を醸す。当時、官房副長官を務めていた海部俊樹元首相はこう言う。

「当初、談志さんは直属の上司である植木光教・沖縄開発庁長官に『政務次官として公務を最優先するよう努力します』と平身低頭で謝罪していたんですが、高座では注意された話を枕に振っていた。他のタレント議員は、そのつど許可を得て活動をしていたので、談志さんには手を焼きましたよ。政務次官は特別職だから職の重みを考えるようにと諭したんですが、私にはモノが言いやすいのか、『高座へ行かないと生活ができなくなる。どっちか選べと言われたら高座だ』と言い切ったんです。寅さんじゃありませんが、それを言っちゃあ、おしめえよ、と思いましたね(笑い)」

 党内外から批判され、わずか36日で辞任した。そしてこのダメ押しの一言。

「僕が次官になったんで初めて沖縄開発庁があるってことを知ったやつがいた」

◆選挙資金が余り、20人でハワイに◆

 77年の参院選でも東京選挙区からの出馬を模索したが、談志さんが敬愛していた漫画家の手塚治虫から「もう行かないでくださいね」と言われて断念。政治家生活は1期6年にとどまった。政界からの引退会見は毒蝮三太夫が司会を務め、小さん、三遊亭円生、田辺茂一・紀伊國屋書店社長(当時)が「立会人」として同席した。

「(政界に)未練はありませんが、愛着はある。みんなが(出馬断念に)賛成したわけじゃない。そんな日にゃ立つ瀬がない。……ま、いろいろとわからないことがありますわね、人間てのは」

 40年以上談志さんが通った東京・銀座のバー「美弥」のマスター、田中春生さんが言う。

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