ルドルフは北海道のシンボリ牧場で生まれ、茨城県美浦村の野平祐二(故人)厩舎に入厩した。そこで調教助手をしていたのが、調教師の藤沢和雄氏(60)だ。

「デビュー前の2歳の時、ルドルフに乗っていました。大人びた馬だなあと思いました。牧場でずいぶんと手をかけられ、乗り込まれていて、他の若駒たちとは全然違っていました」

 それもそのはず。ルドルフはシンボリ牧場のオーナーだった故・和田共弘氏が手塩にかけた子馬だった。

「当時、牧場にいた繁殖牝馬は20頭以下だったと思います。オーナーにとって自分たちで生産した"手作りの馬"だったし、調教も自分たちで思う存分やって育てた。走る馬というより、姿の格好いいサラブレッドを作ろうとしたオーナーの馬に対する思い入れがあったんです」

 ルドルフには同じ父母を持つ兄シンボリフレンドという競走馬がいた。

「フレンドは素晴らしく、調教ではよく動く馬なんですが、気難しくて出世できなかった。野平調教師はルドルフが気難しくならないように調教の指示をしていました。『お兄さんとは違う』とみんなが言っても、『油断しちゃいかん』とずいぶん慎重でした」

 83年夏のデビュー以降、翌年の皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制覇し、8戦無敗で史上4頭目の3冠馬となったのだが、そこにはホースマンたちの"我慢"があったのだ。

「初戦は勝ったけど、レース中にささったり(斜行すること)、気難しいところも見られたりした。しかも、ソエ(前脚のスネの骨膜炎)気味だった。調教のピッチは上がっていたけど、我慢して休養させた。余裕を持ったローテーションが、彼の将来の出世につながった要因の一つだと思います」

 そして馬もまた"我慢"を覚えたという。

「競馬を覚えて距離も長くなってくると、余裕でレースをしていたね。『もう少し早く前へ行ったほうがいい』と我々が思っていても、ルドルフのほうがわかっていて、前へ出るのをじっと我慢していましたよ」

 菊花賞の後、ジャパンカップ(JC)で初めて3着になるも、有馬記念と春の天皇賞を制覇、次のJCと有馬記念でも優勝して史上最多の7冠を果たした。血統の良さのみならず、周囲が粘り強く愛情を注いだ結果が大記録につながった。

 藤沢氏は振り返る。

「格好も能力も素晴らしい、あんな馬にめぐり合えたことは、いい時代のいいものを見せてもらったと思っています」  (本誌・上田耕司)


週刊朝日