ニューヨーク・マンハッタンの東側、イースト川のタートル湾を見下ろす国際連合本部ビルを舞台にした中国漁船衝突事件を巡る日中両政府の神経戦は、あっけなく勝負がついた。

 9月21日にニューヨークに到着した中国の温家宝首相は、「(中国人船長を)即時、無条件で釈放せよ。さもなければ、対抗措置をとらざるを得ない」と日本政府に宣戦布告。あからさまな実力行使に出た。

 中国河北省石家荘市へ出張していた準大手ゼネコン・フジタ(本社・東京)の日本人社員ら4人が、無断で軍事管理区域に侵入しビデオを回したという"スパイ容疑"で拘束された。また、23日には、ハイテク製品の製造に不可欠な「レアアース」(希土類)の対日輸出の停止を通告してきたことがわかった。日本はレアアースの9割以上を中国から輸入しているだけに、強烈なパンチだった。

 この制裁措置に経済界から一斉に悲鳴が上がり、官邸はパニックに陥った。

「22日から国連総会に出席していた菅首相のもとへ情報がスムーズに上がらなくなり、フジタ社員ら4人が拘束されたことも新聞報道で知る有り様だった。『一体、どうなっているんだ? うちには楊潔チー(外相)、戴秉国(国務委員)ら大物と話をつけられる奴もいない』と秘書官らを怒鳴りつけ、これまで封印していたイラ菅を久々に爆発させていました」(官邸関係者)

 菅首相は国連で行った日本語の演説でも動揺を隠せず、「疾病」を「しつびょう」と読み間違えるなど散々な結果に終わった。

 悪化の一途をたどる事態を収拾すべく動いたのは、官邸で留守を預かっていた仙谷由人官房長官と、菅首相と国連総会に参加し、外交デビューしたばかりの前原誠司外相だったという。

「インサイドライン」の歳川隆雄編集長が解説する。

「中国は非公式に人道的措置を打診していた。それは、『船長の親族が事件翌日に亡くなっているので、法要に参加するため、9月27日までに帰国させてほしい』というものだ。落としどころを模索していた仙谷官房長官が主導し、釈放に舵を切ったのです」

 だが、ここまでの日本政府の対応はちぐはぐだった。

 前原外相は7日の衝突事件のころには海上保安庁を管轄する国交相であり、外相に就任当初も堂々と次のように語っていた。

「東シナ海においては領土問題は存在しない。(中国漁船は)我々の領海内で操業し、それを排除しようとした海上保安庁の船にぶつかってきた。公務執行妨害について、日本は法治国家ですから、国内法に則って粛々と対応しています」

 それが、ニューヨークで温首相の攻勢を受けて、早々に"白旗"を揚げた。

「仙谷官房長官になだめられた前原外相は、今度は船長の釈放を条件に温首相と菅首相との会談実現を目指し奔走しはじめたようだ。23日にクリントン米国務長官と会談した前原外相は『まもなく解決します』と明言するなど、釈放は織り込み済みだったとみられます」(外務省筋)

 中国は船長を帰国させるためすぐに小型ジェット機を石垣空港へ差し向けたが、「これは日本政府からあらかじめ、釈放日を知らされていたためだ」(中国大使館関係者)という。

 仙谷官房長官は釈放が決まった24日の会見で、

「検察が粛々と捜査した結果、処分保留で身柄を釈放すると決めた」

 と法務省に責任を押し付け、あくまで政治介入はないとの認識を示した。

 事件当時は外相で、同じく強硬派だった岡田克也・民主党幹事長も豹変し、「地検の判断は尊重されるべきだ」と歩調を合わせた。

 だが、当の那覇地検の鈴木亨・次席検事は処分保留で釈放する理由について、

「今後の日中関係を考慮すると、これ以上身柄を拘束して捜査を継続することは相当ではないと思った」

 と憮然と説明した。閣内でも、片山善博総務相が「大局的に全体としては高度な政治判断が背景にあったのだろう」と語っている。

 船長を逮捕した海保関係者が怒りをぶちまける。

「9月7日、13時間以上も法務省、外務省、官邸と対応を協議し、あまりにも悪質なケースだと判断した。前原さんの強硬論に、原理主義者の岡田さんが賛同する形で、最終的に内閣で船長の逮捕を決めた。それなのに釈放が決まったときはこちらに一言の相談もなかった。尖閣諸島の周辺は海保の船が定期パトロールしているが、毎日160隻前後の中国漁船が堂々と漁をしている。今回が前例となって今後は捕まえにくくなるだろうから、現場の士気は落ちます」

 たしかに大量の漁船の操業を黙認するしかないなら、「我が国の領土」という言葉も空念仏に聞こえる。釈放以降、海保には、苦情の電話が60件以上も殺到しているという。

 ちぐはぐな日本政府をあざ笑うかのように、中国政府は「日本は船長らを違法に拘束し、中国の領土と主権を侵犯した」と謝罪と賠償まで要求してきた。

 海上安全保障が専門の山田吉彦・東海大学海洋学部教授がこう警告する。

「中国の本当の狙いは、民主党の内紛に乗じて尖閣諸島を含む東シナ海の海洋管轄権を獲得することです。そして中国政府は緻密に『商をもって政を制す』という対日戦略を段階的に実行した。SMAPの上海公演の延期、日本青年上海万博訪問団の受け入れ延期、閣僚交流の停止などから始まり、レアアースはトドメです。脆弱な民主党政権は狡猾な術中にまんまとはまってしまったのです」

 民主党内からも松原仁・衆議院議員ら5人が釈放への抗議声明を菅内閣に突きつけ、連立を組む国民新党の亀井静香代表も「圧力にこうした対応しかできないとは」とあきれ顔だ。

 自民党は10月1日からの臨時国会で菅首相の判断を糾すと手ぐすねを引いている。民主党幹部が嘆く。

「11月の普天間移設問題より先にこちらで立ち往生してしまい、菅さんは辞任に追い込まれるかもしれない。今回の失態は大きく、ようやく回復した支持率がまた、危険水域まで落ち込む可能性が大です」

 厄介な火種がまた一つ増えたことは間違いないようだ。

 

週刊朝日