『NEIL YOUNG』NEIL YOUNG
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『NEIL YOUNG』NEIL YOUNG
『EVERYBODY KNOWS THIS IS NOWHERE』NEIL YOUNG
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『EVERYBODY KNOWS THIS IS NOWHERE』NEIL YOUNG
『AFTER THE GOLD RUSH』NEIL YOUNG
『AFTER THE GOLD RUSH』NEIL YOUNG
トパンガの道路標識
トパンガの道路標識

 このWEB連載で、西海岸音楽の聖地の一つとしてすでに何度か触れてきたローレル・キャニオンはロンサゼルスのほぼ真ん中に位置している。南に坂を下っていけば、サンセット・ストリップと呼ばれるエリア。ウィスキー・ア・ゴーゴーはすぐ近くだし、トルヴァドゥールも遠くない。60年代半ばにはヒッピーのコミューンのような雰囲気が漂っていたはずであり、たしかにロサンゼルス音楽の重要な発信地であったわけだが、ところが次第にそこは、若くして富と名声を得たロック・スターたちが暮らす土地というイメージを帯びるようになっていったようだ。熱狂的なファンやグルーピー、怪しい連中も集まってきたに違いない。

 1966年、20歳のとき、カナダからLAにやって来たニール・ヤングはバッファロー・スプリングフィールドの一員として経験を積み、その人気と評価を高めていくあいだ、やはりローレル・キャニオンを生活と活動の拠点としていた。しかし、68年を迎えたばかりのころ、バンドの崩壊が避けられない状況になると、周囲の喧噪に嫌気がさして、ということもあったのだと思うが、彼はローレル・キャニオンを出ている。そして、ソロ活動に向けてということで大手レコード会社から支払われた契約金でトパンガ・キャニオンに家を買い、そこに移り住んだのだった。

 サンタモニカから太平洋に沿って西に5マイルほど。トパンガ・ビーチと呼ばれるエリアから北に向かって道が伸びている。それが、トパンガ・キャニオン・ブールヴァード。ローレル・キャニオン同様、曲がりくねった道を少し走っただけで、周囲の風景は一変し、まさに渓谷といった感じになる。ただしLA中心部との微妙な距離感もあり、ヒッピー・カルチャーのイメージはより強かったと思われる。キャンド・ヒートなどいくつかのバンドがすでにトパンガを拠点にしていたし、俳優では、デニス・ホッパーやハリー・ディーン・スタントンなどハリウッドの権威を嫌うタイプの人が多かったようだ。あのチャールズ・マンソンの活動基地という顔も持っていた。

 ニールはそこで、キャニオン・キッチンというレストランを営んでいたスーザンと最初の結婚をし、スタントンらと親しくなり、生涯の友となるプロデューサー、デイヴィッド・ブリッグスとも出会っている。また、ザ・ロケッツという名前で活動していたバンドを招いてセッションを重ね、彼らにクレイジー・ホースという新しい名前を与えたのだった。

 トパンガを拠点にしていたこの時期にニールは、最初のソロ・アルバム『ニール・ヤング』、ニール・ヤングwithクレイジー・ホースの名義で発表した2作目『エヴリバディ・ノウズ・ディス・イズ・ノーホエア』、最高傑作とするファンも多い『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』と、3枚の重要な作品を残している。トパンガ・キャニオンこそは、まさに、ソロ・アーティスト=ニール・ヤングの原点といっていいのだろう。ちなみに、スーザンとの結婚生活は約2年で終わってしまい、前後して、彼はのちにシリコン・ヴァレーと呼ばれるようになる地域に移っていくのだが、彼女は、『ゴールド・ラッシュ』期のパッチワーク・アーティストとしてニールの音楽世界に今もその名をとどめている。 [次回4/6(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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