AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「話題の新刊」に関する記事一覧

夢を売る男
夢を売る男 今、本が売れない。その一方で、世界中のブログで一番多く使われている言語は日本語だという。自己表現したい日本人の多さの表れでもある。また、文芸書の売り上げは減っているが、小説賞の応募数は右肩上がりだ。  本書は、自分を表現したくてたまらない人々を言葉巧みに持ち上げ「ジョイント・プレス方式」での出版を持ちかける敏腕編集者を主人公にした物語。この方式は、出版費用を著者と出版社が折半するというものだ。言わば詐欺まがいの自費出版ビジネスだが、主人公は著者に作家気分を味わわせ、ベストセラーへの期待を持たせ、心の満足を与えているのだから、「客に夢を売る仕事」と言い切る。  出版界の現状を赤裸々に描き、業界や作家を痛烈に批判。作家を夢見る素人や著者本人への皮肉もあり、ある種の爽快感すら漂う。しかし、主人公は決して出版界に絶望したわけではない。先日、別作品で本屋大賞を受賞し、書店員と喜びを分かち合った著者の執筆への熱意が、どこか主人公に重なって見える。  単なるブラックコメディに留まらず、最後に胸が熱くなる作品。
協力がつくる社会
協力がつくる社会 社会で生き残るためには自分の利益を最優先するのが最善の行動である。生物の進化しかり、市場の論理しかり。そこで暴走しないように法律や規則で常に人を管理しておかなければならない、というのがまあ世間の常識。ところがいま、自分に直接利益がなくても、ルールで縛らなくても、ただ人と協力することでもっと良い成果を得られるという事例が次々に現れているという。協力と利益追求が矛盾なく共存する社会を提言する。  アメリカで工場生産を劇的に向上させたトヨタのシステム、多数のユーザーのボランティアで構築するウィキペディアなどを検証すると、自分を公平に扱う環境と適切な動機づけが揃うと、たとえ無報酬でも人は予想以上に問題解決に協力する。驚くのは音楽ソフトのネット販売の事例で、不正コピーの訴追とソフト暗号化をしないでユーザーの自主性に任せると、ほとんどが適正な対価を払うという。  すると田舎の無人野菜販売所というのは結構イケるやり方らしい。“無人野菜販売所式システム”がひょっとすると世界中で活躍するかもと思うと、ちょっと痛快。
健康男
健康男 新年度が始まり、社会人にとって悩ましいのが健康診断。診断を前に、食事改善や運動に急に取り組む人も見かけるが、100以上の健康法を著者自らの体で徹底的に試してしまったのが本書。  野菜中心の食事療法を導入し、これまで足を踏み入れたこともなかったスポーツジムでバーベルを持ち上げ、歯磨き時にはデンタルフロスを使用する。このような一般的な健康法はもちろんだが、思わず笑ってしまう取り組みも多い。静寂を保つために遮音性があるヘッドホンを常に装着し、立ったままパソコンを打つ。時には、上半身裸で野原を4つ足で駆ける。素人から見ると奇行に映るものも多いが、著者は馬鹿にせずに科学的根拠をひとつずつ丹念に調べながら実践する。  世の中に洪水のようにあふれる健康情報から、自分に合致した健康法を取り入れる一助になるのは間違いない。著者が休暇中の肺炎を機に一念発起して2年以上にわたり「世界一健康な男」を目指した結果、どのような境地に達したかは本書を読んでのお楽しみ。
卒業するわたしたち
卒業するわたしたち ひとくちに“卒業”といっても、学校を卒業することだけではない。歌人であり、小説家でもある著者は、何気ない日常の瞬間を鮮やかに切り取ることにおいて、秀でた感性を持っている。本書は、人生の中で幾度も繰り返される卒業模様を丹念に掬い上げ、その心の襞や、新たな一歩を踏み出す姿を丁寧に描いた短編集だ。  アルバイトを“卒業”する男性に別れ難い気持ちを抱く女性、吹奏楽部の一年後輩の男子に思いを告げられないまま卒業する女子中学生、女性アイドルグループのメンバーの“卒業”に直面し、心が揺れる女子高生らが各話の主人公。彼女たちが切なさ、不安、かすかな希望、愛おしい気持ちなどを率直な言葉で語る。読み手も自然と、そこに自分も経たであろう“卒業”を重ねる。  各話の冒頭には短歌が添えられており、31文字に卒業に対する心情が凝縮されている。一話を読み終えた後で再びその短歌を読み返すと、初見とは違った輝きを放っている。  「目の前の世界は鮮やかに変わる わずかに足を踏み出したなら」
工学部ヒラノ教授と七人の天才
工学部ヒラノ教授と七人の天才 著者が金融工学者として勤務した4つの研究機関のうち、とびぬけて“変人係数”が高かったのが東京工業大学だった。著者の分身・ヒラノ教授が東工大で出会った稀代の天才・7人の素顔をユーモラスに語る。  哲学者・吉田夏彦は数学・物理でも知識は専門家並み。過去の会議の内容はすべて記憶していて議事録がいらなかった。ベトナムから来日したタック助手は卓越した頭脳の数学者だが、著者の再三の要求にもかかわらず日本語を覚える気がまるでなく、にこにこしながら助手の仕事は一切スルー。  衝撃的なのが御大、江藤淳だ。学内外で大喧嘩を繰り返し、同僚に対する扱いが滅法ひどくハラスメント同然。学内で権力を振り回す権力欲のかたまりだった。晩年、母校の慶応大学に転出したが、出身学部の文学部では受け入れを拒否され、法学部が救いの手を伸ばしたという。  著者の人となりについても、「おわりに」に長年秘書を務めたミセスKの証言がある。フツーの彼女の素直な驚きと戸惑いの言葉は、魑魅魍魎の徘徊するがごとき研究現場を楽しく、リアルに表現している。
学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方
学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方 「学者芸人」を名乗る著者は、お笑いコンビ「米粒写経」で活動しつつ、早稲田大学大学院の博士課程を出た異能の人。本書は、200冊超の辞書をコレクションする日本語学研究者としての分析力に芸人としてのプレゼン力が加わった、これまでにない辞書論だ。  それにしても、辞書を「引くもの」ではなく「読むもの」と捉え直してみると、こんなにも面白い世界が開けてくるとは知らなかった。何冊も買い揃えないから気づかなかっただけで、読み比べてみると多種多様な編集方針があり、語釈があることに気づかされる。「ことばは常に生きていて、時代にあわせて姿を変えていきます」という著者。ことばの正しい意味を提供するだけが辞書の役割だと思っていてはもったいない。その正しさ自体が変化してゆくさまを味わうことも大切なのだ。  後半では、読者が自分にぴったりの一冊を見つけられるよう、辞書を擬人化している。「都会派、インテリ眼鏡の委員長」や「白衣が似合う友」などなど……本書を読み終わるころには、きっと新しい友人=辞書が欲しくなっているハズだ。

この人と一緒に考える

「悪知恵」のすすめ
「悪知恵」のすすめ 「すべての道はローマに通ず」の名言を残した17世紀フランスの詩人、ラ・フォンテーヌは、イソップ童話をもとにした寓話も書いている。しかしそこに出てくる教訓はイソップの優等生的それとは大違い、ちょっと青ざめるくらい辛口の人生訓ばかり。したたかに人生を生き抜くフランス人の知恵を学ぶ。  同じ話でとらえ方が日本人とこうも違うか。『キツネとブドウ』でキツネが負け惜しみを言うのは「愚痴をこぼすよりもまし」でむしろ精神の健康によいといい、狡猾なペテンを働くキツネの話では「騙される方が悪い」。子羊に言いがかりをつけるあくどいオオカミも「最も強い者の理屈はつねに最も正しい」。社会はそもそも理不尽で汚いもの、危機を乗り越えるための現実的な術を身につけよと説くのだ。  この厳しい寓話をフランス人は子供の頃から教え込まれる。そういう世界の中で人を微塵も疑わぬ日本人ののほほんぶりを著者は何度も怒っている。本当にその通りだけど、寓話の形で語られる教訓ってなんかちょっと腹も立つ。自分がマヌケなロバだってことにいちいち思い当たるからだろうな。
テレビコメンテーター
テレビコメンテーター ブラウン管を通してお馴染み、でもよく考えれば実体不明。そんなテレビコメンテーターという職業を民放番組に出演するコメンテーター(大学教授)が真正面から論じた本である。執筆のきっかけが面白い。著者はある番組で橋下徹・大阪市長の政策を論評し、市長からツイッターで「批判だけのコメンテーターの典型」と返り討ちに遭う。本書は、それを機として考察されたコメンテーターの役割に関する「応答本」でもある。  各章ではコメンテーターのギャラやなり方など、テレビを見るだけではわからない話題が続く。コメンテーターは単に「わかりやすい説明」を超えて、視聴者側が「何をわかりやすく説明してほしいのか」を察知する力が求められると著者はいう。テーマ選定から説明に至るまで、本書の手際の良さも「さすがコメンテーター」と唸るほかない。  結論ではテレビというメディアのありかたにも考察が及ぶ。経験を元にしたルポルタージュ的要素もあれば、メディア批評としての要素もあり、読み応え十分の一冊だ。
バウルを探して
バウルを探して パリの国際機関で働いていた著者はある日、バングラデシュの職員から「バウル」という謎の民の話を耳にする。彼らの歌は数百年にわたって口頭伝承され無形文化遺産にも登録されていながら、居場所さえわからない。その歌詞にはバウルの哲学が暗号のように埋め込まれているという。バウルの歌を求めてバングラデシュの深部に旅した12日間の記録。  当時、バングラデシュはガイドブックもほとんどなく、手がかりはゼロ。当たって砕けろと、現地で偶然出会ったミュージシャンやバウルの歌を愛する人々、バウルから尊崇を受ける「グル」たちに歌の意味するものは何か、バウルとは何か、次々に疑問をぶつけていく。  バウルの哲学を探す著者の目はヤジ馬的であきれるほど哲学的でないが、実に素直に現実をとらえる。グルが人々におごそかに与えるシッディ(大麻)の入れ物がポテトチップの缶なのにあぜんとし、俺が俺がとみなが歌い続けるバウルの祭りは、NHKののど自慢みたいだと書く。深遠なるものと俗な人間臭さが生活の中に違和感なくとけあう民の不思議を、鮮やかに切り取っている。
ソーシャル化する音楽
ソーシャル化する音楽 本書は、2000年代以降における日本のポップミュージックの歩みを考察したものだ。いまや音楽はただ「聴取」するのではなく、「遊び」として消費されるようになっている、というのが著者の見立てであり、その現象を「トランスフォーム(分割・変身・合体)」というキーワードを用いて論じていく。  かつてアルバムとして聴かれていたものが曲単位で配信され(分割)、リミックスや着メロによって原曲が姿を変え(変身)、カラオケや音楽ゲームのようにアーティスト以外の人が音楽に関わる(合体)ことで、音楽に遊ぶ余地が生じた。そこに、インターネットのソーシャルネットワークが広大な遊び場を提供した。  著者は動画投稿サイトやボーカロイドの初音ミク、音楽自体より握手会や総選挙が話題になるAKB48などを参照し、ソーシャルな「つながり」の中で音楽が解体され、誰でも音楽の現場に参加できるようになった状況を分析。さらに、トランスフォームのありようを60年代のロックフェスなどに接続し、時代的な連続性をも浮かび上がらせる。その手腕たるや見事というほかない。
ちょうちんそで
ちょうちんそで 余生を送るにはまだ早いであろう54歳の雛子は、高齢者向けマンションに暮らす。一人暮らしの雛子だが、長い間疎遠で、目の前に存在しないはずの妹・飴子と幻のおしゃべりを楽しんで過ごすことが多い。古い思い出話や、マンションに住む人々のうわさ話など、二人の対話は尽きることがない。  章が切り替わるごとに、若夫婦や大学生カップル、同じマンションに住む老夫婦たち、カナダの日本人学校に通う少女と先生といった異なる人々が現れ、各々の生活が描かれる。断片的な描写が、緩やかに全体像を見せたかと思えば、逆に謎が深まることもある。  表面的には穏やかでも、人は多かれ少なかれ、過去の記憶や秘密、様々な思いを抱えて生きる。雛子もまた同じだ。日常にさざ波が立ち、誰かの波のあおりを受けることもある。音、匂い、味といった五感を絡めて丹念に描かれた文章を追うことは、他者の内面を覗き見しているかのようでもある。その中に、人とのつながりの妙や、人生の先を見通すことの困難さなども見えてくる。静かで趣深い物語。
中国絶望工場の若者たち
中国絶望工場の若者たち 昨年、中国で吹き荒れた反日デモ。主体となったのが「第二代農民工」と呼ばれる人びとだ。都市への出稼ぎ農民の子供たち世代であり、彼ら自身も多くが農村戸籍でありながら都市部の工場などで働く。本書ではインタビューを通じて中国の急速な経済成長が抱える矛盾を体現する彼らの実像を浮き彫りにしている。  「第二代農民工」に共通するのは、親世代ほどどん欲でない点だ。残業などを控え、貯金もほどほどに、カラオケや服、スマートフォンなどに享楽的に消費する。工場での給与も決して安くはなく、昇給もある。経済的豊かさを享受している実感はあるが仕事に邁進はしない。  背景にあるのは、中国の都市部には我々日本人には見えにくい身分社会が未だに存在することだ。彼らは戸籍管理が厳しい都市では農民工であり、手厚い福祉を受けられる都市民にはなれない。都市では「半透明」な存在であり、がむしゃらに働き続けても、将来に希望を抱くことが許されない。彼らが享楽的に振る舞えば振る舞うほど、中国が抱える闇の深さが見えてくる。

特集special feature

    「AV男優」という職業
    「AV男優」という職業 この世にAV(アダルトビデオ)が登場してから30年。年間売り上げが約550億円、出演する現役AV女優は推定1万人。それを陰で支えるAV男優はわずか70人という。  こんな書き出しから始まる本書。カメラの前でセックスするのがAV男優の仕事だ。いろんな女性とセックスができ、お金も稼げる。それは本当に夢のような仕事なのだろうか。  監督の意図を汲み、女優に気を配り、求められるタイミングで勃起し、長時間持続させるセックス・サイボーグ。本書に「AV男優たちが満足させるべき相手は女優以上に、自分以上に、視聴者である」とあるように、おいしい仕事とは到底思えない。そんな彼らが、AV男優になった経緯や仕事観などを率直に語る。  経験人数が推定5000人以上という彼らにとってセックスとは? 「生活の糧(笑)」「心を求めるつながり」「男女間でできる最大のコミュニケーション」「ホントは秘めごと」──。彼らは決してサイボーグではない。特殊な環境に身を置いたことで、常人が知り得ない何かを達観した、生身の男性たちだった。
    トラウマ
    トラウマ 昨今、東日本大震災によってあらためて「心のケア」に関する議論が盛んとなり、トラウマ(過去の出来事が現在に与え続ける心的外傷)への関心が高まっている。本書は精神科医の著者が、これまでの研究成果をもとにトラウマを多角的視野から解説した一冊だ。  本書に通底して流れるのは、トラウマを専門家のみならず社会全体に開くという著者の問題認識である。トラウマを考える意義は、精神的均衡を崩した人を「弱い人」と見下げるのではなく、そうした状況を生じせしめた背景要因に視線を転じる点にある。例えば黒人、身体障害者などの社会的マイノリティが受ける精神的苦痛はトラウマ的経験とも重なるが、背景には差別や抑圧といった権力関係が示唆される。トラウマを社会的視点で考えることは、個々人がトラウマを学ぶ際の警鐘ともなるのだ。  丹念な解説の傍ら、著者はトラウマを言語化する難しさを強調する。しかしそうした限界点を踏まえてもなお、本書は可視化しづらいトラウマを感じ、掬い上げるアンテナとして有用性を持つだろう。
    精神科医が読み解く名作の中の病
    精神科医が読み解く名作の中の病 中上健次の『十九歳の地図』、角田光代の『八日目の蝉』などなど、名作文学の登場人物を精神科医が片っ端から診断、彼らの心に潜む意外な病を明らかにする異色の読書案内。  登場人物が悩んだり苦しんだり、人はそこに共感するのだが、医師が見るとパニック障害に離人症、統合失調症、生気的抑うつ、とまあ出るわ出るわ。健康の代表みたいな『坊っちゃん』の主人公も「精神病性うつ病」。「生徒が自分を『探偵』している」と疑い、夜の学校で数十人が「床板を踏みならす音」を聞く彼には妄想と幻聴が現れているという。  彼らの病はしばしば作家の精神状態そのものでもある。夏目漱石は正に坊っちゃんと同じ病だし、川端康成は少女の足裏フェチ、谷崎潤一郎はパニック障害だった。小説以上に特異な文豪たちの心のありようは、作品の思いもかけない別の顔をも浮かび上がらせる。  心を病む人間が創造した、心を病む人々の物語がなぜ多くの人の心を打つのか、と著者は書いている。人の世を面白くも味わい深いものにしているのは、健全な精神よりひとさじの狂気、なのかもしれない。
    卵子老化の真実
    卵子老化の真実 テレビなどで最近話題の「卵子老化」。世は美魔女ブームだが、卵子の老化は誰にも止められず、妊娠力は20代後半から低下する。その一方で誤解や偏見も多く、報道を見て「結婚するなら34歳までの女性にしなさい」と息子に口出しする母親も増えているという。  25年間、出産の現場を取材してきたジャーナリストが、卵子老化と高齢出産の実態を、専門家への取材や最新統計、体験談でわかりやすく伝えているのが本書だ。今や日本女性の平均初産年齢は30.1歳。36人に1人は1回30万~80万円もかかる体外受精によって妊娠した子どもである。だが、驚くべきことに、日本は体外受精の数は断トツの世界一だが、妊娠率は50カ国中45位。何百万円かけても赤ちゃんが生まれないという悲劇が急増しているのだ。  40歳以上の出産では染色体異常は20歳の15倍に増加するが、出生前診断についての現場の本音も詳しい。高齢出産の意外なメリットや、明治女性の驚異的な高齢出産力(45歳以上の出産数は現代の21倍!)は一読の価値あり。
    最後に見たパリ
    最後に見たパリ 両大戦間のパリに暮らしたアメリカ人の作家・ジャーナリストによる随筆。文学者・吉田健一が絶賛した名作の本邦初訳だ。  著者が住んだユシェット通りの個性豊かな住人たちを描くのだが、人情味あふれるパリの下町を写す筆致は、次第に暗い影につつまれる。それもそのはず、著者がパリに降りたったのは1923年で、当地を離れたのは40年、パリがドイツに占領された年だ。原書刊行は42年、占領期の真っ直中。著者が哀惜とともに描き出すのは、戦争によって失われたパリの姿なのだ。  ユシェット通りのホテル、「オテル・デュ・カヴォー」に著者が迷いこんだいきさつから物語ははじまる。一見怪しげな食堂の地下に、中世そのままの酒倉と台所があり、金はなくとも真剣に心豊かに生きる人々がいた。控えめで良心に満ちたホテルの主人アンリさん、毒舌家の老婆アプサロム夫人、感性鋭い早熟な少女イアサント……。活き活きとした住人たちが、国情が切迫するにつれて反目しあう光景は胸をえぐる。人間への愛情と、厳しい観察眼が光る。
    映画にまつわるχについて
    映画にまつわるχについて 著者は「ディア・ドクター」「夢売るふたり」などで知られる映画監督。過去7年分の文章を集めた本書が初のエッセイ集となる。映画の話はもちろん、吉原で働く女性に取材した話、幼い頃の著者を悩ませたちくのう症の話、香川照之をはじめとする俳優たちの話、父親お手製のカチンコの話……テーマは実にさまざまだ。淡々とした語り口ながら、ユーモアも随所にちりばめてあり、読み進めたいけれど、読み終わるのが惜しいようなものばかり。  自分の気持ちに正直であることも魅力のひとつ。たとえば向田邦子のことを「女に生まれた者として、『向田邦子』はあまりに出来すぎていて、具合が良すぎて、まぶしすぎて、がっくり来るのである」と書いているが、こうした正直さが、読者との距離を一気に縮めてゆく。数々の賞を手にしながら「作るごとに映画はわからなくなる一方だ」と書けてしまうのも正直さゆえであり、妙な謙遜からではなさそうなのがいい。これまで彼女の作品に触れたことがない読者も、人間性に惹かれ、映画を観てみたいと思い始めるに違いない。

    カテゴリから探す