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「文庫・新書イチオシ」に関する記事一覧

永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」
永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」 歴史に「もし」はない、とはよく言われるし実際その通りと思うが、それでもつい考えてしまう、というのはどうしても「後悔先に立たず」だからで、大失敗してしまった後など「あの時ああなら」とつい考えるのもムリはない。  コトが敗戦、とかだとその思いはさらに大きくなる。そしてどうしても「結果で見る拙劣な作戦」が、「あの時にアイツじゃなくてあの人が指揮を執っていれば」というような「もし話」になる。  永田鉄山(てつざん)という人も「相沢事件で殺されていなければいずれ“陸軍最高の頭脳”といわれた彼がトップにたち日本はあのようなことにはならなかった」と、よく言われている。  永田鉄山という人がどんな生い立ちかということを知らなかったので、この本は面白く読んだ。なるほど、頭がよくさらに勤勉で、真面目で話のわかる、部下思い家族思いの人であったようだ。  では陸軍軍人としての永田はどういう人であったか。軍内の派閥を解消すべく動く。戦争というものはかならず「総力戦」になるとして「国家総動員体制」を確立しようとする。……むろんこれだけのことではないが、「軍隊というものを国の基本」とする考えから一歩も出ていない人のように見える。軍隊という組織の中では能吏(のうり)なのであろうが。  永田が目指すものがその通りに実現するわけがなく、いろいろな思惑(政治や軍部の)のもとに、つぶしたりつぶされたりしている。そして恨みをかってついに陸軍省の中で斬り殺されることになる。  永田や、山本五十六などは「あの男が生きていれば、ああはならなかった」とよく言われるけれど、もしそうならいったいどうなったのか。さして変わりはないのではなかろうか。人がひとり生きても死んでも、歴史の流れなど止められない。だからこれからのことを気をつけねばならない、ということを戦争は教えてくれているのではないだろうか。
O・ヘンリー ニューヨーク小説集
O・ヘンリー ニューヨーク小説集 読者を楽しませる仕掛けがこれでもか!と入っている、サービス満点の一冊だ。収録されているのは「賢者の贈り物」や「最後の一葉」で知られるO・ヘンリーの短編であり、そこには100年前のニューヨークとそこで暮らす人々が登場する。 「サービス満点」と書いたのは、各話に解説がついていたり、当時の写真や絵画をカラーで紹介するミニコーナーがあったりするから。「おまけ」と呼ぶには充実し過ぎているこれらの助けを借りれば、読者は小説を読みながらにして、当時のニューヨークを快適に旅することができる。小説集であり、旅行ガイド。そんな気分で読み進めていけることが、本書の大きな魅力だ。  丁寧な解説のおかげで、想像の翼はぐんと広がり、登場人物たちとの距離感が一気に縮まる。わたしがとくにグッときたのは、大都会でがんばるワーキング・ガールたちの姿だ。たとえば、速記のスキルがなく、書類の清書しかできないタイピストが薄給であると知れば、粗末な部屋で暮らし、天窓から見える星に名前をつけるタイピスト女子が健気でたまらなくなる(「天窓の部屋」)。デパートのショップ・ガールが玉の輿狙いで働くのが常と知れば、知識・経験不足ゆえにイイ男を捕まえ損ねる話は、笑えるようでもあり、ほろ苦いようでもある(「あさましい恋人」)。働いて、恋をして、生きていく。彼女たちの生き方は、いまのわたしたちと何ら変わらない。100年の時を超えて女子会がしたいぐらいだ。  大昔かつ外国の物語(いろいろな意味で遠い!)を生き生きと見せているのは、なんといっても訳者の力。青山南+戸山翻訳農場……農場? 何やら気になるこの名前は、青山が学生と取り組んでいる翻訳プロジェクトの名前である。若い才能がO・ヘンリーを訳す「組み合わせの妙」もまた読者を楽しませる仕掛けとして効いている。未来の売れっ子翻訳家を探すつもりで読むのもいいかも知れない。
沖縄の殿様 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記
沖縄の殿様 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記 徳川時代の大名は、明治維新になってその地位と領地を失うが、代わりに県令(今でいう知事みたいなもの)とか大使になって新政府で今までにない役割を担うことになる。いくら「地方でいちばんエライ人」であっても殿様と知事はぜんぜん違う。殿様というのは案外、バカ殿はいなかったらしいが、それでも家来にかしずかれて何でもやってもらっていただろう。  米沢藩主・上杉茂憲(もちのり)。あの謙信、鷹山で有名な上杉家の最後の殿様である。この人の代で維新を迎え、廃藩置県の後、英国に1年ばかり留学、帰国して宮内省に勤めたが奥さんが浮気して離婚&再婚、東京では財政困難で倹約生活を強いられている時、沖縄県令にならないかと声をかけられ、それを引き受けた。  政府のほうはどうも「どうせ大名育ちで無能だろう」と侮っていたようなのだが、茂憲さん、いいとこの出のボンボンによくある、良心的で勤勉な人で、頭も悪くなかった。世間のことはよく知らずとも、やる気満々で沖縄に赴くことになり、すごく真面目に、多少のトンチンカンも混ぜつつ、県令として奮闘する。当時の沖縄は風俗も違うし言葉もあんまり通じない。いくら県令とはいっても殿様に務まるのか。政府がそう思うのもムリはない。  それでも茂憲さんは、沖縄入りすると、いろんなところに出かけて民情を視察し、年寄りに褒賞を与え、学校をつくって利発な少年を身近に使い、沖縄が良い土地になるように懸命にいろんな施策を打ち出す。しかし、よかれと思って……という施策につきものの反発を招いてしまったりという有り様が面白い。  沖縄県令として約2年。殿様がいかに奮闘したかが、ここに書かれたお堅い施策や文書を読んでいると、みょうに可笑しく想像できてしまうのである。県令としての茂憲さんの功績を忘れていない人もいるらしく、ほのぼのと「よかったな」と思う。
ウェブニュース 一億総バカ時代
ウェブニュース 一億総バカ時代 無料でウェブニュースを読むことは、わたしたちの暮らしの一部となりつつある。スマホやパソコンでニュースを見ない日はないし「ねぇアレ見た?」と言えば、それが会話の糸口にもなる。今やウェブニュースはコミュニケーションツールだ。  しかし、この世の中「タダより高いものはない」のである。著者は無料のウェブニュースを真に受けるのは“バカ”だと喝破し、「あなたは今後も“バカ”であり続けるのか。それとも“バカ”をやめて自分の力で情報を読み解く方法を身に付けるのか」と問いかける。バカから脱出したければ本書を読むべし、というワケだ。  本書が特徴的なのは、なんといっても著者が今現在ニュースサイトの「中の人」として働いていることだ。現場の人間が暴露する裏事情は、かなり生臭い。閲覧数を稼いだり、ニュースと広告の境目を曖昧にするため日々磨かれるテクニックの数々は、報道のためではなく、われわれを騙すためのテクニックである(しかも感心してしまうほど狡猾!)。電波法に基づく免許取得を必要とするテレビ放送と違い「ウェブニュースサイトを運営するために免許は必要ない」、つまり野放しである。だから企業や代理店からもたらされる広告費に目が眩んだ者たちが簡単にダークサイドへと堕ちてゆく。  ステルスマーケティング=「ユーザーに分からないように宣伝活動を行うことで、さも『本当に』その商品の価値が高いように見せかける手法」について書かれている第五章では「まじめな編集」「ビジネスライクな編集」といった、みんながステマに手を染めてしまう事例紹介がリアルすぎてちょっと怖い。しかしこの「ゾッとする感じ」を植え付けることこそが著者の狙いであろう。おかしな方向へ進んでいるウェブニュースを徹底批判し、ニュース=報道のあるべき姿を取り戻すための「革命の書」として本書は読まれるべきである。
遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史
遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史 日本人は骨を大切にする。大切な人が死んだらその骨を手厚く葬る。遺骨収容団が遠い硫黄島に出かけていき、それが自分の身内のものかもわからぬまま、埋められ打ち捨てられた骨を日本に持ち帰る。墓に納め、手を合わせる。そこまでしてやっと、次に進むことができる。  骨の数があまりにも多く、すべてごっちゃになって、どうしようもない。70歳の女性は「どの骨がお父さんのものか分からない以上、みんなお父さんだと思って拾っているんですよ」という。もう人を犬死にさせないために、戦没者の遺骨のことを考え続けなければならない。新聞記者である著者がここで紹介している「遺骨の有り様」を読んでいるとそう思わせる。  遺骨といっても、人は死んだらすぐ骨になるわけではない。高火力で焼かない限り腐敗という道が待っている。そんな遺体が山ほどある酸鼻を極めた場所というと、ガダルカナルかインパール作戦かと思ってしまうが、日本中に、戦争で死体だらけになった場所はあるのだ。  この本は、快晴の下、子どもたちが遊んでいる錦糸公園の、そこにある大きな木の根本に、遺体を埋めたことを語る老人の話から始まる。「そばに大きな穴があってね。そこに黒こげの遺体を埋めたんですよ」。川には水面が見えないくらい遺体が浮いていた。川に浮かんできた女性の遺体を引き上げると、2歳くらいの子どもが、母親らしきその女性の髪の毛にしがみついていたという。東京大空襲、熊谷の(玉音放送が流れる8時間前の)空襲、広島、長崎の原爆。離島の遺骨も都会の遺骨も悲惨である。  ふだん歩いている公園や地面にどろどろの遺体が埋まっていた。いたましい、というよりももっと不思議な、(誤解を招くかもしれない形容になるが)花畑の中に立ち尽くすような気持ちになる。自分の骨なんてどうなったっていいが、アスファルトやビルの下でじっとしている骨のことは、ときどき思い出すべきだろう。
虹色と幸運
虹色と幸運 同じ学校、同じ学年、同じ性別。学生時代は重なり合う部分の多かった女たちの多くが、20代後半から分断されはじめる。妊娠・出産する者、親の老いに直面する者。結婚に焦る者、仕事が面白くて恋愛どころではない者……気づけば女たちはそれぞれの人生を歩み始めており、友だち同士でも分かり合えない部分が出てきてしまう。  そうした女たちの分断を、著者はまるで顕微鏡でも見ているかのように描出してゆく。イラストレーターの「珠子」は「好きなことが仕事になっていいですね」と言われるが、母親とのコミュニケーションに難を抱えており、恋愛もうまくいかない。「他人の幸運はくっきりとよく見えるけど、自分の幸運はもやにつつまれたように、いやもっと濃い、雲の中にいるように、手さぐりで確かめるしかなくて、そこにあるのに、すぐに見えなくなってしまうのかもしれない」。他人からは無い物ねだりと言われそうだが、珠子にとっては切実な問題だ。  育児の傍ら雑貨屋をオープンさせた「夏美」は珠子の恋バナを聞いて「疑似体験できてうれしい。新鮮。忘れてたものが蘇る感じがする」と言う。夫に子どもに仕事。全てを持っているかのように見える夏美にも、足りないものはある。そして大学職員として働く「かおり」は過干渉な母親に隠れて恋人と同棲していたが、それがバレた上に、恋人のことをけなされてしまう。かおりからすれば珠子のドライな母娘関係が羨ましい。  彼女たちは「隣の芝生は青い」と思いながらも自分の人生をちゃんと生きている。いまの自分にできる仕事をやり、愛せる人を愛する。そして全ては無理でも友だち同士分かり合える部分があることを大事に思う。同じだから繋がれていたあの頃から、違うから語り合える今への移行は、決してドラマチックではないが、心温まるものだ。名も無き花に心奪われる瞬間があるように、彼女たちの生き方もまた地味だが美しい。

この人と一緒に考える

天草四郎の正体島原・天草の乱を読みなおす
天草四郎の正体島原・天草の乱を読みなおす 天草四郎。有名な人であるがイメージが先行しすぎている。キリシタンで、美少年なのに反乱軍の総帥。あらゆる妄想が渦巻く。しかし「実際の天草四郎」が、そんなキラキラしてるばかりであるはずがない。そこでこの本を手にとって「正体」を知ろうと思ったところ……。  正体どころか、私は天草四郎のことなど何も知らなかったということを知った。いやー、けっこう自分は歴史好きで、知ってるつもりだったのになあ。正体、と銘打たれると「天草四郎は実は……!」みたいな扇情的内容なのかと思わされますが、読んでみたら、「天草四郎の実体はわからない」のである。今に至るも謎。天草四郎の首と言われるものもいっぱいあってどれが本物なのか、いちおう当時本物認定されたものはあるものの、それが本当なのかわからない。  そして、そもそも天草四郎なんていなかったかもしれない、らしいではないか。それは残念、妄想のネタが……と思いきや、「四郎殿」と呼ばれる「少年の総大将」はいることになっていて、そして四郎殿のまわりには、四郎殿と同じような年格好の少年たちがいっぱいいる。その少年たちははっきりと目撃されている。四郎の首と言われるものもほとんどがその少年たちのものらしい。  この少年たちを使って、イメージ戦略で「天草四郎という総大将の存在」を打ち出していた「本物の中心人物(非少年)」がいた、というのが、古文書などを読んでいると自然に導き出される真実のようなのだ。いや、四郎が実在してなくてもこの戦略にはさらに妄想がふくらむ。  もっと気になるのは、「島原のキリシタンを弾圧しまくって殺した者を塩漬けにして土蔵に保存」してた「島原藩主松倉勝家」で、いくらご禁制のキリシタンだからって、その弾圧加減が異様なのだ。そのあたりの断片が最初のほうに書かれていて、さらに妄想欲はふくらむ。
麺と日本人
麺と日本人 麺にまつわる短篇が37本! 壮観である。  ラーメンに蕎麦、うどんにフォー。出てくる麺もいろいろなら、作者もいろいろ。椎名誠による人選がかなりバラエティに富んでおり、目次を眺めているだけでも楽しい。内田百けんや古今亭志ん生がいるかと思えば、角田光代や江國香織の名前もあるし、辺見庸や池部良もラインナップされている。そこから気になる数篇を選び出し麺を啜り込むようにズッズッと読み進んでゆけば、食欲は刺激され、読書欲は満たされ、日本の麺カルチャーにも詳しくなれるという手筈だ。  昭和23年の冬に生まれて初めて醤油ラーメンを食べたという渡辺淳一は、その時のことを次のように振り返る。「顔一杯に湯気を浴びながら、わたしはこの美味しさにまた驚いた。少し大袈裟にいうと、こんな旨いものが世の中にあったのか、と溜め息をつくほどの旨さであった」……当時は食糧事情が悪く「薯か薄い雑炊」で飢えを凌いでいたというから、とんでもなく旨かったに違いない。  正統派の「旨い麺の話」を掲載しておしまい!じゃないのが本書の素晴らしいところ。「さして旨くもない麺の話」もちゃんと載っているのである。  椎名誠は、かつて山梨の「吉田うどん」をきちんと取材できなかったことを後悔し、数年後に再度チャレンジするのだが「はっきり書いてしまうが、これはそんなにさわぐほどのものではない、ということがわかった。固いうどんである」と語っていて、このガッカリ感には思わず笑ってしまった。しかも、これが本書に収録された1本目の短篇である。  しかし、旨い麺だけをえこひいきして崇め奉ったりしないこの姿勢が非常にチャーミングというか、本書を「信用に足る本」だと思わせているのではあるまいか。この世には、旨い麺、不味い麺、普通の麺がある。食べるのであればもちろん旨いに越したことはないが、読むのであれば、どんな麺の話も面白い!
「美術的に正しい」仏像の見方30歳からの仏像鑑賞入門
「美術的に正しい」仏像の見方30歳からの仏像鑑賞入門 今ドキの若い女子が仏像をアイドルみたいに「ステキ」とか言ってる「仏像ブーム」を私は嘆いているが、その嚆矢は白洲正子の『十一面観音巡礼』ではないか。十一面観音てところがミソで、だいたいどんな十一面観音でもスッとして美形でかつ異形の超人ぽいのである。食いつきやすいのである。これが『阿弥陀如来列伝』とかであったら、白洲人気も仏像人気もこうはいかなかったであろう。  この『「美術的に正しい」仏像の見方』は、表紙がまず「蟹満寺(かにまんじ)の釈迦如来坐像」であり、文中でも「見るべき仏像」とされている。でも表紙で見てもらうとわかるように一見ブルドッグみたいな、江夏豊みたいな、スゴイけれどもとっつきはよくないご面相。でもこの本の中で「15歳から仏像好きで今では仏像専門の大学の先生」という著者の友人が「いちばん好きな仏像」として挙げるだけあって、たくさんの仏像を見続けると「これこそが素晴らしい仏さま」ということが、するっと納得できる。甘ったるくないが難解でもなく、国宝だがお高くとまっていない。「かたちのバランスが整っていて、線も鋭く、しかもダイナミックに波打って、細部にも重厚感がある」と著者は書く。木津川市の小さな寺院にある仏像で、それを表紙に持ってきたところに見識を感じる。  仏像初心者には、わかりやすい仏像の特徴から、その仏像には仏教的にどんな意味があり、かつ美術史的にどんな意味があるかを説明してくれるので、仏像を好きになることの意義みたいなのが増して、ますます仏像好きに邁進できる。私のようなすれっからしの仏像ファン、観音とか甘いこと言ってんじゃないよというような人間にも、そうだそうだ、こういう仏像をきちんと見ることが仏像ファンの本道だ、と満足を得る。すれっからしのそんな押し殺した気持ちを「解放していいんだよ」とも言ってくれる。すべての仏像ファンにとって、やさしい本です。
荒木飛呂彦の漫画術
荒木飛呂彦の漫画術 本書を『ジョジョの奇妙な冒険』の作者が明かす漫画の描き方……と説明してしまうと「自分は漫画を読まないから関係ない」と思われてしまいそうだが、ちょっと待って欲しい。それはあまりにも勿体ない。  漫画術と銘打たれてはいるが、本書は仕事術である。多くのスター作家を抱える『週刊少年ジャンプ』という場に、無名の新人だった男がどうやって自分の居場所を作ったのか? 王道漫画を志しながらも既視感のない作品を描くためにどのような創意工夫をしたのか? こうしたエピソードは、わたしたちがビジネスシーンで自分の存在をアピールするためのヒントとして読むことができる。  たとえば「リアル化」と「シンボル化」という言葉を使って絵の描き方を説明するくだりでは「もし、すべてにリアリティを追求していったら、読者はいったいどこを見ていいのかわからなくなってしまいます。僕自身、伝えたい気持ちが強すぎて、その勢いで描き込みすぎてしまう失敗を犯したことがあるのですが」と、自身の弱みを見せながら、シンボル化することの重要性を説く。あるいは「自分とは違う意見や疑問に思う出来事、理解できない人」との出会いは「アイディアが生まれる気配がぷんぷん立ち込めています」と語り、自分とは相容れないものからでも仕事を作り出すことができるのだと読者を叱咤する。他にも「漫画のこと」として片付けるには勿体ない、応用範囲の広い仕事術がどんどん出てくる。  荒木作品に登場する「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特なポージングや「ズキュウウゥン」「メメタァ」といった、彼にしか思いつかないユニークすぎる擬音を見ていると、はじめから「型破り」な漫画家だったのだろうと思ってしまうが、本書を読むと、実はかなり愚直に「型=王道漫画の描き方」を意識していることが分かる。荒木は一流の漫画家にして一流の仕事人。その流儀を新書価格で学べるなんて、お得すぎる。
元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略
元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略 いろいろ出てるタカラヅカ歌劇関連の本の中ではいちばん面白かった。世にあふれるタカラヅカ本は「こんな異様な世界!」と見世物にするか、「ハマってみると面白い、男性も怖がらないでね」と誘ってくるかであって、「またコレかよ~」感はハンパない。  しかし本書は、タカラヅカの中にいた人の事務的な話なのだ。つまり、興行団体としていかに運営していくか、という面から見たタカラヅカ。こういうのが読みたかった。  女だけの劇団で女が男役をやってキャーキャー騒がれる、ということがタカラヅカの特色と捉えられているが、それよりもっと「他に例を見ない」ことは、自前の養成機関を持ちそこを卒業した者のみが所属する大劇団で、さらに制作も演出も自前で、五つの組が順繰りに上演していく、ってことだ。ある演目がいくらウケようが、上演期間が終われば次の組の公演になるし、その逆でも期間中はきっちり上演が続く。人気だからといってロングランはないし、不人気だからって打ち切りも一切ない。興行としてすごく不合理なこの興行形態が、「作品の出来不出来より、いかにスターが“立っている”かということが主眼とされる」という特殊な作品づくりにつながってることがよくわかる。  その他、組のプロデューサーとして体験したいろいろなエピソード(スターがらみではなく、運営上の)がいちいち興味深い。全国ツアー公演に持っていく演目をどうやって決めるとか、そういう話。「知らない世界の話」としても面白く読めるように書いてある。  これを一種のビジネス書として読むことも可能かもしれないが、でも、読めば読むほど特異性が際立って、他のビジネスに転用できる話じゃないと感じる。だからタカラヅカとAKB48との類似点と差異を書いた後半部分については、別になくてもよかったんじゃなかろうか。AKBともぜんぜん違うよタカラヅカ。
国境のない生き方私をつくった本と旅
国境のない生き方私をつくった本と旅 著者は『テルマエ・ロマエ』で知られるマンガ家。同作は主人公が古代ローマと現代日本の風呂を行き来するユニークな物語だが、国内外の風呂文化のことをきちんと調べて描いているという学究的な側面もあり、他に類を見ない知的エンタメ作品として人気を博した。タイムスリップ×風呂、どうしたらこんな組み合わせが思いつくのか? 本書を読んで彼女の人生を知れば、その答えが見えてくる……だけでも十分面白いのだが、彼女が人生の折々に出会った本の話が実に読ませる。  北海道の大自然のなかで暮らしていた幼少期に読んだのは『ニルスのふしぎな旅』や『宝島』。フィレンツェで絵の勉強をはじめた17歳の心に響いたのは、安部公房やガルシア・マルケス。のちの『テルマエ・ロマエ』誕生と密接な関わりを持つ星新一や小松左京も大好きな作家だという。文芸誌「早稲田文学」の編集委員をなぜ務めているのだろう?と思っていたが、本書を読んで納得した。マンガ家としてより、本の虫としての時間をより長く生きているのだ。 「たとえ今、自分のそばに、自分の気持ちを分かち合える人がいなくて、孤独の中にいるとしても、本の中にはいるかもしれない。本の中にいるその人と対話することで、自分が感じている漠然とした寂しさみたいなものが、自分ひとりのものではないことを、人は知るのだと思います」……作家紹介、作品紹介を超えて「人間にとって読書とは何か」を語る視野の広さ、懐の深さは、ただただかっこいい。  海外を転々としながら暮らす彼女は「閉塞感を感じたら、とりあえず移動してみる。旅をしてみる」ことを勧めているが、移動できない人のことを見捨ててはいない。読書で心を旅させなさい。読書はあなたの人生を支えてくれるよ。そんなメッセージがじわじわと伝わってくる。売れているから読むのでも、役に立つから読むのでもない、「生きていくための読書術」が、ここにはある。

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