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「話題の新刊」に関する記事一覧

ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く
ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く 大谷能生は(ジャズに軸足を置く)音楽家であり、また批評家でもある。本書は、彼が2001年から13年までの間にさまざまな媒体に書いてきた文章を集め、2編の書き下ろしエッセイを加えたものだ。レコードでいえばシングル集のような本で、どこから針を落としても構わないし、どこをトレースしても大谷の文章の芸が滲み出してくる。  黒人音楽に特有な「グルーヴ」の解剖、坂本龍一や村上春樹、クリント・イーストウッドらを「音楽」で探る作家論、アメリカおよび日本のジャズ史、ライナーノーツや書評──お題は多岐にわたるが、どの論考も切り口の鋭さとディテールの緻密さに圧倒される。とりわけ「レコード音楽」=録音物を再生するという音楽的行為が20世紀の音楽批評をいかに駆動させてきたか、との視点には感銘を受けた。  作家の海猫沢めろん氏は、とあるエッセイで「随筆というものの肝は自らの歪んだレンズを通してなにかを伝えることなのである」と書いていた。本書は大谷能生というきわめてユニークなレンズを通して音楽を、世界を見ることができる。
居酒屋コンフィデンシャル
居酒屋コンフィデンシャル 政治家から最も本音を引き出せるのが、サシで向き合う酒の場だ。描く政局、政敵への怒り、「実はあの時」という打ち明け話。通常はオフレコが前提だが、ICレコーダーを前にして、どこまで話をしてもらえるか。本書はそれに挑戦した産経新聞政治部記者による、酒場インタビュー集だ。  首相に返り咲く1カ月前、安倍晋三氏は手酌で炭酸マッコリを飲み、ホルモンを頬張りながら「デフレ脱却には、中央銀行の徹底した意志が必要だ」と宣言。民主党の玄葉光一郎元外相は地元の冷酒をあおりつつ、「穏健保守を軸に再構築を」と党内の路線対立に終止符を打つ意思を示した。キャバクラ通いに忙しい自民党の新人議員締め上げ策も、石破茂幹事長と野田聖子総務会長の口から飛び出した。  店は政治家側が選択した。ビストロから中華料理屋まで、日ごろうかがうことのできないあの政治家の味の嗜好がわかるのも、本書の特徴だ。  ちなみに取材は2011年7月から。登場する23人中、7人に今はバッジがない。永田町の栄枯盛衰は、実に早い。
東京放浪記
東京放浪記 76歳になる現在まで、「よそ者」感にとらわれつつ東京に住む劇作家の自伝的エッセイ集。渋谷、目黒、新宿、六本木、浅草といった土地になじみながらも、かすかな違和感がよぎる都市生活の肌触りが描かれる。  満州に生まれ、高知、静岡、長野と移り住んだのち、信越線に乗って上京した著者にとって、かつての上野は、都市の暗部を象徴するような場所だった。「ネクラな上野組」という属性を、著者は深く自覚する。  早稲田での学生時代には、「自由舞台」という左翼劇団に入ったことで「在野の精神」の意味に思い至った。それは常に「通俗世界」に身を寄せ、そこでの喜怒哀楽に同調することではないか。行きつけの喫茶店から喫茶店へと原稿用紙を抱えて歩き、人間のうちでも「流れる者」は喫茶店で安らぎ、「住みつく者」は居酒屋で安らぐとの持論を導く。渋谷は「らんぶる」「ライオン」「田園」などの喫茶店の街だった。  さまざまな要素を不調和のまま内包する東京。「飽きがこない」と表現するその魅力の奥行きが味わえる。
いつも彼らはどこかに
いつも彼らはどこかに 光と影が交じる階段の踊り場のような幻想空間で隠れんぼする生と死。そんなイメージを抱かせる雑誌連載の短編8作を編む。どこの町、どこの国とも舞台の場所は明記されないが登場人物はおしなべてミニマルな世界に住む。孤独で内省的だ。でも暗くない。彼らには寄り添ってくれるものたちがいる。  例えば、スーパーを回り特売品実演販売で生計を立てる女の関心事は、海外の檜舞台に遠征する優駿、ではなくて同行の帯同馬だ。報じられるはずもないオマケの動向を彼女はあえて熱心に追う。例えば動物園の売店で働く女。子を手放した束の間の母親の贔屓(ひいき)は、チーターである。多産だがハイエナなどに狙われ生存率は低いという種の顔を彩る隈取を涙の跡のようだ、と彼女は思う。  あるいは乱獲の果てに絶滅した野兎の最後の一羽に思いを馳せる男やもめ。勤勉の代名詞・ビーバーの白骨化した頭骨とその仕事を明かす小枝を、執筆を励ます守護神と大切にする女性作家の物語。著者特製のドールハウスを覗く感だ。ひたすら静かなたたずまいのこの家で、悲しみは昇華する。
「AV女優」の社会学
「AV女優」の社会学 「AV女優」と呼ばれる人々を、当事者の視点に寄り添って取り上げた研究書である。1983年生まれ、AVスカウトマンのたむろする街で学生生活を過ごした著者は、これまでのアカデミズムの性産業論は当事者の現実にもとづいていないと一蹴する。業界内に潜り込み、AV女優との交流を通じて著者は「AV女優像」の形成過程を明らかにする。プロダクション面接などを通じ、女優たちは特定の女性像を演じることを学ぶ。さらにインタビューなどでの自己語りを繰り返し、そうした像は自身にも内面化されてゆく。  しかしながら女優像を単に「つくられたもの」と片づけるのは誤りである。ある女優は「AV女優だからこれくらいのエンタテインメントしかつくれないって思われたくないから、演技でもなんでも本気でやる」と語る。自己演出はその実、AV女優たちの逞しさを形成する糧でもあるのだ。  AV産業の構造、単体女優と企画女優の違いなど、業界の具体的な事情から出発して丹念な説明がなされている。現場からのたしかな説得力を感じる一冊だ。
原寿雄自撰 デスク日記
原寿雄自撰 デスク日記 「肥(ふと)ったブタになるよりやせたソクラテスになれ」。1964年、東大の卒業式で大河内一男学長が語ったと報じられたが、実際はライトにあてられ、そこを読みとばしていた。それが予定稿のまま新聞に載り、卒業生まで「聞いたような気がする」と言う……。  こんな「ニュースの裏側」を記録した『デスク日記』が、半世紀ぶりによみがえった。共同通信社会部デスクだった原寿雄さんが小和田(こわだ)次郎の筆名で月刊誌に連載したもの。当時の5巻本から選んで一冊にした。  ほんとうのことを読者と共有して「真実の報道、民衆のための言論に近づける」ため、大企業や政治家、芸能プロとの攻防を明かし、マスコミ界の情けない部分も書いた。  固有名詞は古びても、著者の問いかけは今を貫く。ベトナム戦争の時代。自国が戦争を進めるとき、新聞が「真に愛国的たりうる道」は何か。証券会社の経営破綻危機では「社会を動揺させるものを報じない」原則を批判した。反戦運動などに触れた番組が中止・変更させられた数々の放送中止事件を記録。政治とメディアの距離を照らし出す。

この人と一緒に考える

シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶
シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶 あった、よかった。本棚にホームズ短編集を探しあて頁を繰る。派手な活劇も色気もない。刺激に欠ける。しかし蝋燭(ろうそく)、ガス燈、電気、馬車、鉄道が同居する19世紀末のロンドンを主舞台に、観察、分析、推理即ち人智で事件の謎を解く名探偵と、伝記の手法で彼の事績を記す腹心ワトスンの語り口に改めてひきこまれ時を忘れた。本書が再読を誘ったのだ。  英国作家コナン・ドイル(1859~1930)が創出、短編56作、長編4作を通して描いたシャーロック・ホームズ。一世風靡ののち現代に至るまで探偵小説最大の英雄であり続けるホームズを著者は、不思議の思いを突き詰めるにあたり真理に至る飛躍をもたらす契機は想像力にあり、と教えた師と仰ぐ。信奉者として、また翻訳を生業とする立場から40年来、ホームズの世界に密着、その普遍の魅力の広告塔を務め書き継いだエッセイ集成が本書。初の著書という。4部構成。パロディ、注釈本を含む内外の出版情報、愛好家団体の動向などを知る。国境を超えて今なお不滅のホームズに出会う。
美容整形と〈普通のわたし〉
美容整形と〈普通のわたし〉 身体の気に入らない部分を望み通りに変えたい。でも、劇的に美しくなりたいわけではない。そんな複雑な思いが交錯する美容整形の意味を、聞き取り調査をもとに解き明かす。  日本で整形に踏み切る者が求めるのは、理想の「美」ではなく「普通」だ。患者たちは「普通」と異なる鼻や目、乳房を直したいと語る。これは「自然の身体」を傷つける整形をタブー視する日本ならではの特徴だという。患者の多くが微調整を望んでリピーターとなるのは「自分の身体は精神の所有物」とみる近代的な身体観が根底にあると分析する。  同時に、患者たちは整形を機に「生まれ変わった」と証言する。劣等感から解放され、新たな人間関係や仕事を獲得し、自分を構築し直す。ここにアフリカの、身体に傷をつける通過儀礼との類似性を見る。伝統的な身体観と近代的なそれとの間で、整形は揺れているとの考察も鋭い。「人間は身体を加工する動物」という著者は、自己否定感を持つ人には整形も「ありかも」と書く。興味本位でなく、真摯に整形と向き合いたい人には「救い」となる言葉だ。
二丁目のフィールド・オブ・ドリームス
二丁目のフィールド・オブ・ドリームス プロフィールを読み、永沢光雄さんが亡くなって、7度目の夏が来ているのを知った。はやいものです。高校野球を、プロ野球をこよなく愛した作家でした。球場に足を運んで観る人だった。生前に遺した野球エッセイ13編に小説一作品が加えられ一冊に。  仙台から大阪の大学に進む。アパートのすぐ前に藤井寺球場があった。近鉄バファローズの本拠地。野球ベタの野球少年だった。大学より球場通いの日々になる。将来の不安を飛び跳ねる白球で打ち消していた。監督の西本幸雄の顔にひかれる。負け続けているなかでのあの笑顔。日本シリーズで一度も優勝してない近鉄。そこに人生を重ねるようになっていた。  自伝的要素があちらこちらに。ユーモラスで哀しくて。そして下咽頭がん。手術で声を失い妻とは筆談だ。球場に行けなくなった。文章に苛立ちが隠せなくなる。だが、野球少年に注ぐ眼差しは、相変わらずやさしい。星稜高校のマネージャー君を回想するシーンは胸に響く。そうそう、永沢さんは新宿2丁目に長く暮らし、愛されていた。いまも、きっと。
工場
工場 改行が少なく、びっしりと埋め尽くされた文字。虫眼鏡で細密画を追うような、奇妙な感覚。表題作「工場」は、大きな川が南北を隔て、広大な敷地を占める工場が舞台だ。  登場人物はここで働く3人。一日中シュレッダーで紙を裁断し続ける女性と、別の部署で何のために作られたか分からない文書を校閲する仕事に携わる兄。そして、屋上緑化の仕事をまかされて入社したはずなのに、特にその成果を求められることがないまま、「コケの観察会」の運営を続ける正社員の男性。自分たちの仕事が何の役に立っているかは全く分からない。そんな3人の視点で交互に綴られる。工場には、灰色ヌートリア、洗濯機トカゲ、工場ウという奇妙な生き物も生息する。読み手も工場の中を彷徨いながら、少しでも手がかりを得ようと目を凝らして文字を追う。  精巧なミニチュアの世界をこっそりと覗き見するような錯覚。緻密なはずなのに、一向に見えない全体像。精緻なまでに描写された物語はどこに向かうのか。やがて意外な幕切れを迎える。結末如何よりも、神々が宿る細部にこそ、この物語の妙がある。
ザ・ミッション 戦場からの問い
ザ・ミッション 戦場からの問い 昨年8月にシリアで銃撃された女性ジャーナリスト山本美香さんは、2008年から毎年2、3回、早稲田大学大学院政治学研究科で「なぜ戦争を取材するのか」をテーマに講義をしてきた。本書は彼女の遺志を若い人に引き継ごうと、死の約3カ月前に同研究科と政治経済学部で話した内容をまとめたものだ。  03年、イラク戦争の開戦時。日本の大手メディアがバグダッドから退避する中、フリージャーナリストとして残った経験をもとに、山本さんは現場で取材することの必要性を論じる。「救助するか、撮影するか」。バグダッドのホテルで米軍戦車の砲撃を受け、隣室のロイター通信のスタッフが死傷した際の体験を振り返り、現場でどう行動するべきかを自問している。  学生たちと交わした議論からは、戦場で苦しむ人々に向き合ってきた、芯が強くて優しい山本さんの真摯な姿が甦ってくる。「伝え、報道することで社会を変えることができる、私はそれを信じています」。人として記者として、私たちは何ができるのかについて考えるためのヒントがあふれている。
生きる場所のつくりかた
生きる場所のつくりかた 北海道・十勝に「新得・共働学舎」という農場がある。1978年の創設。身体や精神に障害があるなどの理由で居場所を見つけにくい約70人の人たちが暮らしている。  特徴は、大きく二つある。ひとつは、ナチュラルチーズの生産だ。2004年に欧州のコンテストで金賞を受賞したほどの味。しかも、それぞれのペースでゆっくり働く人たちがつくっている。もうひとつは、入りたい人を断らないこと。「だって、その人は、その時、何かが必要なわけだろう」と代表の宮嶋望さん。  著者は、ときに自らの悩みもさらけ出しながら取材を続ける。宮嶋さんも家族の問題点を隠さない。著者が親しくなった50代の男性は、サリドマイド事件の被害者で、両腕がない。施設で育ち、波瀾万丈の人生を経て、この農場に落ち着いた。「自分に合った仕事を、自分で選べる」からだ。  宮嶋さんの父は、東京の「自由学園」の元教師で、長野県で共働学舎を開いた。「(この農場は)親も学校も気づけなかった子どもの宝を探す場所」という宮嶋さんの信念に、人間の可能性を感じ取れる。

特集special feature

    あのひとは蜘蛛を潰せない
    あのひとは蜘蛛を潰せない 28歳になる野坂梨枝は、母と実家で二人暮らし。地元にあるドラッグストア運営会社に就職し、仕事は順調で何の不満もない。給料はちゃんと貯金できている。帰宅すれば、手の込んだ母の手料理が待っている。  「けれど時々、子供の頃から眠り続けているこの部屋でまた目覚めなければならないことが無性に嫌になる。狭い穴の底にいる気分だ。同じ天井、同じ家具、同じ部屋の広さ」  迷い込んだ蜘蛛の始末がつけられない、実直そうなパートの中年男性が出奔。さらには母から見合い写真が持ち出されたことから、無難に生きてきたはずの梨枝の心にざわめきが生じる。そんな時、8歳年下の大学生・三葉くんが現れ、恋が始まる。梨枝は、見て見ぬふりをしてきた呪縛や周囲との関係性、自分の本心に向き合い、葛藤することになる。  一旦気付いてしまったものは、無視できないほどに膨らみ続ける。三葉くんが時折放つ、本質を射るような台詞に、読み手も梨枝同様に心が揺れる。淡々とした日常とは対照的に、梨枝の心の機微自体が濃密な物語であり、その奥深さに魅了される。
    ウイスキー粋人列伝
    ウイスキー粋人列伝 酒の飲み方は人の性格を表すとは昔から言ったものだ。本書に登場する90人の著名人の逸話をひもとけば、ウイスキーほど飲み方がわかれる酒はなく、人の個性が前面に出る酒はないことがわかる。  作家の永井龍男は自宅に訪れた客にはウイスキーをたっぷり注いだ紅茶を出し続けた。夫人にたしなめられても誰が相手でも決して流儀を変えなかったという。江戸川乱歩はウイスキーを出さない小料理屋にも小瓶を忍ばせて通った。イラストレーターのリリー・フランキーは仲間と地図を見ながらバーを巡る。ウイスキーには飲み手の多種多様な楽しみ方を受け止め、遊び心を包み込む懐の深さを感じさせる。  最近は、ウイスキーを炭酸で割ったハイボールが若者の一部で再び人気とも聞くが、焼酎やワインに押されている感は否めない。ただ、本書の古今の魅力的なウイスキー愛飲史は、ウイスキーが廃れたのではなく、飲み手の多くが遊び心を失ってしまったのではと我々に投げかける。酒飲みには楽しくも反省させられる一冊である。
    社会人大学人見知り学部 卒業見込
    社会人大学人見知り学部 卒業見込 著者はお笑いコンビ「オードリー」のツッコミ担当。2008年に漫才コンテスト「M-1グランプリ」で2位を獲得したとき、初めて「社会というものに自分が参加しているという感覚」を味わったという。  本書は2008年を自身の「社会人一年目」と定めるところから始まり、社会人4年目の「卒業論文」で締めくくられるエッセイ。30歳にして始まった社会人ライフについての考察は、初々しさと、独自のネガティブ思考によって支えられている。  たとえば、人と話す時に足首を猛烈に回してしまうマネージャーにどう説教したらよいかひどく悩み、「足首を回すな!(感情ストレート型)」「足首回すのやめたほうがいいよ(微笑みつつしっかり刺す型)」「それ摩擦で火が出て火事になったら怖いからやめてくれ(煙巻き型)」の3パターンを考え、その一方で、自分もかつて先輩にこのような気遣いをさせていたのであろうことに思い当たる。「説教の中の愛はすぐには芽吹かないのかもしれない」……おかしさの中から見いだされる真理には、なんとも言えない魅力と説得力がある。
    〈ひと〉の現象学
    〈ひと〉の現象学 顔、こころから、自由、死に至るまで、〈ひと〉の一生に関わる様々なモチーフを読み解いた一冊である。主題はどれも一見よく知っているようでいて、意識的に捉えてみれば多くの綻びや矛盾を隠している。著者のいう「現象学」とはその「見知ったもの」を丁寧に剥がしてゆく営みを指す。  日々の生活と哲学を結びつける「臨床哲学」を提唱する著者だけに、社会の現実を参照しながら論は進む。例えば、身体。自分の身体が「自分のもの」というのは一見当たり前の感覚だ。美容整形や遺伝子操作が社会に浸透するのも、そうした感覚が基盤にある。しかし、その起源は西欧社会の近代革命で市民の所有権、すなわち「『わたし』の存在はわたしのもの」という権利が認定されたことにある。その裏には自分という存在が「じぶんではどうにもならない」という逆説が覆い隠されていると著者は問う。  認識の根源を問い返すだけにあたまをフルに使う。だが、専門用語を使わず配慮された文体なので、ゆっくり読み進めれば哲学的思考を愉しめる。
    耕せど耕せど 久我山農場物語
    耕せど耕せど 久我山農場物語 食堂の窓越しに見るのは、東西中農場の3区画のべ約40平方メートル。でも実測値は問題ではない。ここは著者の壺中天(こちゅうてん)。誰が何といおうと著者の眼前には農場の景色が広がっている。東京西郊、久我山の地で耕耘・施肥・播種・育成・収穫を骨子とする農を重ねた十余年の実績を踏まえ月刊誌に連載(2011~13年)した農場だより18話の集成が本書である。  自家消費が目的だから効率は考えない。あれも食べたいこれも食べたいと葉物、根菜、豆……、何でも植える。現実は壺中ではない露地の作業だから秋霜烈日にもさらされるが、苦労譚にはならない。多品種少量栽培の楽しさと困難を伝える八十翁の筆致は、飄々。耕耘機やシビンを巡る記述を含め巧まずして笑いをとる練達のエッセイで知られる著者の面目躍如だが、第18話にはしみじみとする。  農との関わりにまつわるはるかな記憶、亡父の像が立ち上がる。あの敗戦前後の食糧難を自給自足で乗り切るべく家庭菜園を構想、実務に著者を動員した父なる人。『日本文壇史』の作家伊藤整である。
    植物はそこまで知っている
    植物はそこまで知っている 植物に感覚なんかないでしょと思っていたら、どうもそうではないらしい。植物は周りを「見て」いるし匂いさえ「嗅いで」いる。驚きの感覚世界を解き明かす最新の植物学。  意外なことに植物はちゃんと光受容体をもっている。青い光を感知するとそちらに体を曲げる仕組みになっていて、日の当たる方向に迷わず伸びていく理由がこれ。時期を違えず花を咲かせるのも「見る」からだ。夜間に夜明けの光に相当する赤い光をとらえることで夜の長さを測り、正しい開花時期を知る。つまり色も識別していることになる。  驚くべきは「記憶する」能力。食虫植物のハエトリグサは、獲物が葉の内側の毛の一本目に触れたときは動かず、二本目で葉を閉じる。一本目に触れたという情報を、二本目に触れるまで保持するシステムをもっているのだ。  進化論のダーウィンは優れた植物学者としても有名で、彼を始めとする植物学者たちが実験で五感のメカニズムを解き明かしていく過程がエキサイティング。植物のおよそ「植物らしからぬ」アクティブな生活に、脳みそが引っこ抜かれるような衝撃。

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