昨年、遠藤周作の未発表作品が長崎市の文学館で発見された。1963年3月以降に書かれたようだが、『影に対して』と題されたその中篇小説は、この本にも収められた6篇の短篇作品と同じく、実母への思慕に満ちた物語となっていた。

 主人公の勝呂は、幼い男児がいる既婚者で、小説家になる夢を抱えながら翻訳の仕事をしている。両親は彼が小学生のとき、そのころ住んでいた大連で別れた。満鉄に勤務する父は「平凡が一番いい」と説く人だったが、バイオリンをやっていた母は、日に3時間も一つの旋律をくり返し練習する人だった。

 両親の離婚後、勝呂は父とともに暮らした。本当は母といたかったが、子ども心に彼女の厳しさを怖れていた。日本にもどった勝呂はそのまま父と同居し、先に帰国していた母との交流は手紙のやりとりに限られた。バイオリンの講師となった母は、厳格な指導が疎まれて学校を転々としながらも息子への期待は失わなかった。しかし、ある日、アパートの一室で誰にも看取られずに亡くなってしまう。

 母を裏切り見棄ててしまった──自責の念は勝呂の心にこびりついた。<自分の人生をあなたに与えることができる>と手紙に書いた母を思えば、再婚して自説どおりの平凡な生活を満喫している父は、憎悪の対象でしかなかった。とはいえ、いざ自分が父親となってみると、母が命をかけた「人生」に惹かれつつも、父の「生活」の力に引きずられてしまうのだった。

 副題にあるように、この本は、遠藤周作の「母をめぐる物語」となっている。遠藤は、亡くした母について書き続けることで、彼女の期待を上回る人生を生きてみせたのかもしれない

週刊朝日  2021年2月19日号