脳死下の臓器提供が行われるようになった。「脳死は人の死です」となっても、「決まったものはしようがない。まあ、自分はドナーカードに拒否と書いとけばいいか」などと、臓器移植について深く考えないようになった。脳死移植を待ってた人に「ある種の解決」をもたらしたと思っていた。
 いや、何も解決してません。科学政策論の専門家とジャーナリストによるこの本を読んで、目の前がくらくらしてきた。今、移植医療がどういうことになっているか。
 まず脳死移植であるが、脳死が人の死と認められれば、移植を希望する患者が「よかった」となるかといえば、そんなことはない。まだまだドナーが足りないのである。足りないということは……待ち望みつづけるということになる。問題は脳死移植だけではない。心臓死による移植や生体移植もそれぞれ進化を遂げている(安楽死ドナーなどというのも、当然のごとく登場する)。
「移植なんて心臓に肝臓に腎臓に角膜ぐらいか?」と思っていたら、「顔の移植」なんてものが成功しているという記述にぎょっとする。スペイン、アメリカ、フランスでは顔面全体の移植が行われているのだ。新しい自分の顔を受け入れる心理的な問題があるという。そして「移植ツーリズム」の問題。つまり臓器を求めて海外に行く。莫大な金が必要になる。必然、臓器売買も行われることになる。
 人間は生きたいと思う。それは当然のことであり、臓器がダメになったら別のものに差し替えたいと思うのも当然だ。思う人があれば、叶えたい人もいる。けれど需要と供給のアンバランスのせいで「臓器の値段」は、とてつもないものになる。
「夢の若返り」という言葉があるが、iPS細胞にしてもSTAP細胞にしても、そこには「国の経済発展」が語られ、つまり「儲け話」になっていくのだ。この問題は、人として常に考え続けねばならない、とこの本を読んでいて思うのだ。

週刊朝日 2014年7月18日号