54年前の半蔵門周辺。望遠レンズでの撮影は、門を含めてしっかり奥行きを写し出している(撮影/諸河久:1964年5月10日)
54年前の半蔵門周辺。望遠レンズでの撮影は、門を含めてしっかり奥行きを写し出している(撮影/諸河久:1964年5月10日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、江戸城甲州口といわれた「半蔵門」の都電だ。

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 ジョギングのブームもあり、皇居周辺は夜になってもランナーを多く見かける。皇居の門の一つ「半蔵門」周辺の静謐(せいひつ)な場所も、ランナーの蹴上げる音と息づかいが聞こえてくる。

 振り返れば1993年、皇太子さまと雅子さま結婚の儀での御成婚パレードも、ここ半蔵門周辺は皇居前広場から赤坂迎賓館方面に向かう道筋となり、沿道には祝福する多くの人々で賑わった場所だ。

 この地に鎮座している江戸城の東と南は低地だが、西と北は山手の台地と地続きの地形だった。そのため、西には深い内濠と外濠を巡らせ、北には神田川を開削させて外濠として防備を計った。ことに麹町の台地が迫る西側は、江戸城防衛のウイークポイントであった。したがって、甲州口門外の四谷に通じる街道沿いに伊賀忍者の棟梁「服部半蔵正成」に屋敷を授け、服部家の配下である与力30騎、同心200名の組屋敷を置いて警備に当たらせた。「半蔵門」の名が、この「服部半蔵」に由来している、といわれる説だ。

現在の半蔵門周辺。当時の面影も残っている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在の半蔵門周辺。当時の面影も残っている(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 また、江戸城の内曲輪には和田蔵、馬場先、日比谷、外桜田、半蔵、雉子橋、竹橋、清水、大手の10門があり、半蔵門はそのうちのひとつ。半蔵門の北側の内濠を半蔵濠、南側を桜田濠と呼んでおり、緑と水辺に囲まれた風光明媚な景観は、都民に親しまれている。

 第二次大戦の空襲で旧来の半蔵門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものだ。

 半蔵門付近に路面電車が敷設されたのは明治期で、半蔵門線(半蔵門~日比谷公園)が1903年11月に開業。新宿線(半蔵門~新宿駅前)もほぼ同時期の1903年12月に開業している。続いて、番町線(九段上~半蔵門)が1905年12月に開業した。いずれも東京市街鉄道による敷設で、街鉄時代は新宿駅前~築地~両国、新宿駅前~半蔵門~九段下~両国など、同社のドル箱路線として運行されていた。

 昭和期に入り、16系統新宿駅前~半蔵門~築地の時代を経て11系統に改番。戦後も新宿駅前~月島の運行で11系統を継承して、1968年の廃止まで走り続けた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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