昭和39年4月の路線図。半蔵門界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和39年4月の路線図。半蔵門界隈(資料提供/東京都交通局)

 いっぽう、戦後の番町線には10系統渋谷駅前~三宅坂~半蔵門~九段上~須田町が運転されていたが、東京オリンピック関連の高速道路工事進捗による迂回運転が始まり、同線は1963年10月に廃止されている。

 写真は、麹町警察署前の路上から半蔵門を背景とした構図で、11系統新宿駅前行きの都電を狙った。門内の吹上御苑の杜を都電の背景にするため、アサヒペンタックスSVにタクマー200mmF3.5の望遠レンズを装填して構図を整えた。同じ場所から標準レンズでフレーミングすると、後方の杜は背景としてパースが高くならないからだ。フィルムはコニパンSS(ISO100)を使用。露出ワークは1/250秒のシャッタースピード・絞りはf5.6、と記憶している。

 当時「歳不相応な機材を使い生意気だ…」と陰口を叩かれたこともあったが、この200mm望遠レンズは、筆者の鉄道写真に新しいイメージを授けてくれた優れものだった。都電の真後ろの門前に、警視庁の警備用トラックが駐車している。画像を拡大してスタイルを観察したところ、以前に「両国駅前」編でも紹介した「1959年式・いすゞTX型」トラックの同系車と分析できた。

 余談であるが、大正期の市街地図を見ると画面右側の街区が麹町区山元町で、画面左側の街区が同元園町になっている。(撮影時の付近一帯の住所は千代田区麹町で、現在も不変)。半蔵門から264m新宿寄りの麹町三丁目停留所(後日麹町二丁目に改称)も、電車道両脇の町名は山元町と元園町だった。名実ともに麹町町内の停留所となるのが、麹町三丁目から323m先の麹町六丁目停留所(後日麹町四丁目に改称)であることが、マップリーディングで判明した。

 写真の左側にあたる半蔵門交差点の西北角には、写真館の老舗「東條会館」が建っている。ポートレートの名匠と謳われる東條卯作が明治期の1912年に写真館を開業。肖像写真やお見合い写真など、幅広い顧客を獲得してきた。現在、旧東條会館のビルは東京MXテレビとの共同ビルに建て替えられ「半蔵門メディアセンター」として面目を一新した。伝統の肖像写真は複合施設「ONE FOUR TWO by Tojo」の「東條・フォト・スタジオ」として盛業中だ。

 ちなみに、この界隈は写真とのゆかりが深く、近隣には日本カメラ財団が運営する「JCIIフォトサロン」や「日本カメラ博物館」、日本の写真関連団体の「日本写真協会」、プロ写真家団体である「日本写真家協会」などもある。ここ半蔵門は、写真文化の香りを感じさせる街でもあるのだ。

■撮影:1964年5月10日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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