築地停留所から写した36系統。当時は「電車通り」「都電通り」などと呼ばれた(撮影/諸河久:1963年9月1日)
築地停留所から写した36系統。当時は「電車通り」「都電通り」などと呼ばれた(撮影/諸河久:1963年9月1日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、10月6日で営業を終え、83年の歴史に幕を閉じる築地中央市場への足となった都電だ。

【築地から新富町方面。50年でどれだけ変わった?現在の写真はこちら】

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 築地を東西に横切る晴海通りと直角に交わる通称「電車通り」(現・平成通り)に、築地停留所があった。ここには錦糸町駅前からやってきて築地で折り返す36系統と、渋谷駅前からやってきて晴海通りを左折して浜町中ノ橋に向う9系統の、二つの系統が走っていた。以前にこのコラムでも記した築地で折り返す8系統のように、築地が始発の36系統は、仕入れた荷物を両脇に抱える河岸帰りの乗客にとって「座って人形町や深川方面に帰れる」利便性の高い乗り物だったに違いない。

 写真は築地停留所(晴海通りの停留所と違って、こちらには乗降する安全地帯がなかった)から撮影した36系統築地行き。都電の背景は「中央区立築地小学校(現・京橋築地小学校)」の校舎で、1928年に竣工している。関東大震災後の復興小学校様式として建てられた典雅な外観は、建築家に高く評価されていた。近隣にある「アルマーニ制服」で話題となった泰明や京橋、京華、明石などの旧京橋区立の小学校舎も同様式で建てられた。しかしながら、この築地小学校舎は1986年に改築されてしまい、現存するのは泰明小学校と京華小学校跡の京華スクエアになった。ちなみに震災前の築地小学校は、この写真の一区画右側奥にあって、この場所には逓信省海事部海員裁判所の建物があったそうだ。

同じ場所の現在の写真。当時の築地停留所付近から新富町方面へは、都電でのアクセスが便利だった(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
同じ場所の現在の写真。当時の築地停留所付近から新富町方面へは、都電でのアクセスが便利だった(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 江戸の時代から日本橋にあった卸売市場が築地に移転する転機となったのは、東京を中心に甚大な被害をもたらした関東大震災だった。

 1923年9月1日に起きた関東大震災は、江戸時代から日本橋川北岸で繁栄を誇った「日本橋魚河岸」などの市場群を壊滅させた。同年12月に、旧築地四丁目に位置した海軍省所有地の一部を使って「東京市設魚市場」を臨時開設、その後1935年に本格的に開設したのが「築地卸売市場」の始まりとなった。ちなみにこの写真は、偶然にも関東大震災からきっちり40年目の1963年9月1日に撮影していたから、何か因縁を感じる一コマだ。

 震災後焼け野と化した築地界隈に、区画整理による新道が誕生する。現在の築地四丁目交差点から本願寺の前を通って水天宮方面に至る「市場通り(現・新大橋通り)」がそれであった。地元の古老は「三十三間通り(昭和通り)」に対比して、ちょっぴり狭い「三十間通り」とも呼んでいた。「市電も走らない、こんな広い通りを何に使うのか?」という巷の声もあった。戦後になってモータリゼーションの波がやってくると、築地市場から日本橋・江東方面に通じる幹線道路として大いに役を得た。まさに「先見の明」あり。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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