昭和40年3月の路線図。両国界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。両国界隈(資料提供/東京都交通局)

 1923年9月1日の関東大震災で、国鉄両国橋駅は駅舎を焼失。両国引込線も震災復興期の道路改正のため、運転休止を余儀なくされた。1929年11月、新両国橋駅舎竣工に合わせて、国技館前(後の東両国二丁目)から両国橋駅前まで約300mを別線として敷設し、両国引込線の運転が再開された(休止中の旧線はこの時点以前に廃止)。1931年10月、国鉄両国橋駅の両国駅への改称にともない、市電も両国駅前に改称した。

 両国引込線には戦時中から戦後の復興期にかけて、新造車両の搬入線として活用されたエピソードがある。1944年に新造された5000型が搬入の先陣だった。大物車に乗せられ両国駅貨物線に到着した車体を地上に降ろし、貨物駅構内からコロを使って車体を移動。道路上で台車を履かせて、前年から営業休止中だった両国引込線に入線させている。当時は、重機などあろうはずもなく、ジャッキ等の機材と人力で搬入されていたようだ。

 12系統の6000型と一緒に写っている「国鉄貨物自動車」について触れておこう。

 戦後、国鉄が受託した小口貨物輸送の効率化のため、貨車代行輸送として自動車(トラック)による輸送体制ができた。1950年1月から、山手線輸送力の緩和と貨車の運用効率向上のため、東京都区内発着の小口貨物の集約輸送を東京都区内で開始した。総武線は荷物電車による輸送が脆弱だったため、都区内各駅と総武線沿線各駅相互間の荷物を、両国駅を拠点にして自動車輸送していた。

 写真のトラックは両国駅を拠点とする荷物輸送便と推察される。車種は1959年式の「いすゞTX型」で、ガソリンエンジン仕様とディーゼルエンジン仕様があったが、この写真では判別できない。「桐と動輪」の国鉄エンブレムがラジエータグリルに輝いていた。

■撮影:1965年3月27日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。9月には軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催予定。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら