国鉄総武線の高架橋が奥に見える(撮影/諸河久:1965年3月27日)
国鉄総武線の高架橋が奥に見える(撮影/諸河久:1965年3月27日)

 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、東京の東玄関口、国鉄両国駅へのアクセスとして活躍した、両国駅前の都電だ。

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 9月になると、両国国技館で興行される「大相撲秋場所」を告知する「触れ太鼓」が近隣を巡り、相撲の街・両国の風物詩になっている。

 相撲好きでなくても一度は耳にしたことがあるだろう「電車道(でんしゃみち)」という言葉。立合いから一方的に相手を土俵の外に押し出したり寄り倒したりする力強い相撲のことで、昭和の名横綱・柏戸の代名詞でもあった。いつしか使われるようになったこの「電車道」は、定かではないが路面電車の軌道敷が由来しているとも言われている。

 現在、この両国国技館に隣接したJR両国駅前には、かつて都電が発着していた両国引込線があった。写真は、国鉄両国駅前の停留所で発車を待つ12系統新宿駅前行き。折から走ってきたボンネット形の「国鉄トラック」との一瞬の出会いを狙った。このトラックについては後述するとして、まずは背景から。

 都電の後ろに写っているのは国鉄総武線の高架橋で、画面右側の少し先で隅田川を渡河している。画面左側には1929年に竣工した両国駅本屋の建物があり、駅前の車寄せからは都バスも発着していた。撮影時には「37甲」「37乙」の二系統の都バスが、両国駅~東京駅八重洲口を結んでいた。
 

同じ場所での現在の光景。ビルは増えたが、当時の面影が残る場所も(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
同じ場所での現在の光景。ビルは増えたが、当時の面影が残る場所も(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 都電12系統は新宿駅前を発して、四谷三丁目~四谷見附~市ヶ谷見附~九段下~須田町~東両国二丁目~両国駅前に至る9486mの路線。昭和初期に17系統から12系統に改番されてからは、終始12系統を堅持した。戦時中の1943年に両国引込線が休止されると、運転区間が新宿駅前~岩本町に短縮された。戦後、1952年4月に両国引込線が復旧し、再び両国駅前まで運転された。1968年3月、両国引込線の廃止により、再度新宿駅前~岩本町に短縮される。12系統の全廃は1970年3月だった。

 都電路線の中で「引込線」と呼ばれたのは、この両国引込線と浅草駅引込線(1931年廃止)、それに貨物営業をした中央市場(ちゅうおうしじょう)引込線の三線のみで、貴重な存在だった。

 両国引込線には、震災前の旧線と震災復興時に別ルートで敷設した新線がある。

 1915年1月、東京市電は国鉄両国橋駅と乗換えの利便を図るため、両国橋線の旧両国停車場前から両国橋駅前まで約200mの両国引込線を敷設する。これが旧線である。

 両国橋駅(りょうごくばしえき)は1904年4月、総武鉄道の終端駅として開業。1907年、鉄道国有法により国有化され、国鉄両国橋駅となった。両国橋駅前の終点は駅舎の南側に位置した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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