「ぜいたくはできなかっただろうけど、別にお金に困ったことはなかった」と、悲劇性過剰の宿命ドラマに対して反発し始めている。育ての親の石坂もこの取材中に早くも、「藤圭子の時代は終わった」と語っている。

 藤が第1回日本歌謡大賞や日本レコード大賞大衆賞を受け、さらにNHK紅白歌合戦に初出場するのは、石坂が藤圭子の時代の終わりを告げてから半年後のことである。そして、翌年には前川清との突然の結婚、そして1年後の離婚。藤圭子の“宿命の少女”伝説には、ほぼ1年ほどでピリオドが打たれることになる。

 しかし、その伝説づくりは見事というしかない。五木寛之が前出エッセーの中で、「ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である」と書き、全共闘世代が「新宿の女」の一節、バカだな バカだな だまされちゃって……、に共感したことなど、時代の雰囲気すべてが、たとえ短期間だったにせよ、藤圭子という演歌歌手を幾重にも支えた。

 時代が“怨歌歌手”藤圭子をスターに押し上げ、やがて彼女はその時代の重みにつぶされ、消えていく。結婚、離婚、引退、渡米。そこには、彼女なりの抵抗の跡がうかがえる。伝説で語られた暗い人生は、むしろ伝説崩壊後の一時期、 藤を直撃したと見るほうがいい。藤は「週刊朝日」(平成10年7月9日号)のインタビューに対して、こう答えていた。

「子どものころから歌が好きと思ったことは一度もなかったんです。歌えなくなって初めて、私は歌が好きだったと気がついたんです」

 独身時代の本名・阿部純子から、旅回り歌手の時代には三条純子、上京してソノシートに歌を吹き込んだときには島純子、そして“演歌の星”藤圭子。昭和54年に一度引退、2年後にカムバックした。“歌う藤圭子”に、彼女が愛情を感じはじめたのは、カムバックしてからだろうか。“怨歌”のイメージは、自殺とも思える謎の死にあるだけだった。

(文 生活・文化編集部 宮本治雄)