背景にあったのは産業革命だ。工業化社会が成立すると、身分制社会が崩れ、「国民国家」化が進んだ。

「『国民』という概念ができてくると、戦争に勝つか負けるかが『自分たちの国』の運命だけでなく、それが家族や自分自身の運命をも左右するという意識が芽生えました。普仏戦争ではドイツ軍が進撃すると、フランスの軍人だけでなく、民間人も抵抗した。すると、占領地の住民は信用できない、という考えが生まれた。総力戦ではお互いの国民が憎悪し合っていますから、もう二度と立ち上がれないように、徹底的に叩き潰すようになったのです」

 それが全面的に展開したのが第一次世界大戦だった。しかも占領地の住民だけではなく、自国民に対しても銃が向けられた。

「例えばロシアは、東部戦線ではドイツとオーストリアを相手に戦ったわけですが、ロシア領内の国境付近にはポーランド系やユダヤ系の人々が多く住む地域があった。自国民であっても、いざ戦争が始まればドイツ側に寝返るかもしれないという恐怖心が支配者にはありましたから、先手を打って敵対する可能性のある住民を前線から遠い地域に根こそぎ強制移住した。反抗したらその場で銃殺したりした」

国家が「敵」とみなした国民

 ドイツやその他の参戦国も多かれ少なかれ同様のことを行った。しかし、戦争が終わると、植民地支配下を除き、自国市民に銃を向けるような態度は改められた。

「ところが、ロシアや旧ソ連の場合、敵はすべてせん滅しなければならないとか、住民も監視しなければならないとか、総力戦に由来する思想が第一次世界大戦後も支配層に残り、恒常化してしまった」

 第一次世界大戦のさなか、ロシアで革命が起こった。共産党が権力を握り、のちのソ連につながる体制を樹立すると、独裁体制を確立していった。

「旧ソ連では、選挙で指導者が選ばれることがなかったので、国民から説明責任が求められたり任期を終えたら交代したりするシステムができませんでした。そこでは常に支配者側と住民が潜在的に対立関係にあった。国家は国民を潜在的な敵とみなし、取り締まった。人々の間にスパイを送り込み、監視する体制がつくられた。当局の人権意識は薄く、恣意的に市民を逮捕したのです」

※記事後編<<許されざるロシア軍の暴虐に、国家による市民や兵士「命の軽視」の歴史 専門家の懸念>>に続く

(AERA dot.編集部・米倉昭仁)