吉田郡山城(広島県)の、城内最大の曲輪・三の丸に残る石塁。三の丸は内部が四段に分かれ、西の段と南の段の間を石塁で隔てていた。
吉田郡山城(広島県)の、城内最大の曲輪・三の丸に残る石塁。三の丸は内部が四段に分かれ、西の段と南の段の間を石塁で隔てていた。

 縄張は、郡山の山頂に本丸をおき、本丸から放射状に延びる6本の尾根に曲輪を配置する。二の丸や三の丸のほか、城内には300以上の曲輪が存在していたという。毛利元就自身は、山上の本丸で生活していたようで、家臣もそのほかの曲輪に屋敷を構えていたと考えられている。

 元就の死後、孫の輝元は織田信長と覇を競ったが和睦し、信長の後継者となった豊臣秀吉に服属。その後、郡山城の軍事的な必要性は薄れ、天正十九年(1591)、輝元は広島城を新たに築いて移った。そして、関ヶ原の戦い後に毛利氏が安芸を去ったことで廃城となっている。

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◎監修・文/小和田泰経(おわだ・やすつね)1972年、東京都生まれ。歴史研究家。國學院大學大学院文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。著書に『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社)など。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、戦国最強の山城「ベスト50」を徹底解説しています