昭和末期になると、スピードガンやストップウオッチなどデータで選手の能力を判断するようになったが、河西はこれらの機器とは無縁で、自分の目を大事にした。投手であれば、球速よりも球のキレを重視した。キレを測定することは不可能だ。

「やっぱ目で見んとあかん。150キロ出ても、140キロのほうがええ奴おるからな」

 ストップウオッチも使わない。河西は足の速さ以上に「野球足」がものを言うと信じていたからだ。河西は戦後すぐから南海、阪神で俊足巧打の選手として活躍し、盗塁王を3度獲得している。経験から来る「野球足」とは、相手の嫌がるずるい走塁、盗塁のスタートの良さ、隙あれば次の塁を奪ってやるという積極性である。動作から選手の内面も見えてくる。

 その代表例がエースとなった阿波野秀幸(現中日投手コーチ)と野茂英雄(後ドジャース)である。阿波野の魅力は切れのいいスライダーで、牽制も上手かったが、表情が優男で、プロ向きの気性なのか不安もあった。

 阿波野が亜細亜大学4年のリーグ戦のときだった。彼はブルペンで投球練習をしていたが、ピンチになっても自分には声がかからない。彼はグラブをフェンスに叩きつけて「なぜ俺に投げさせないんだ」と叫んだ。河西はその姿を見て、プロでも行けると判断する。

 野茂は、新日鉄堺では即戦力投手として、全球団から注目されていたが、河西は成城工業時代からすでに野茂をマークしていた。このときはどの球団もトルネード投法はプロでは通用しないと見ていた。だが河西は粗削りだが、馬力あるからできる投げ方だと判断した。

「こんなタイプは指導者泣かせや。コーチはフォームをいじりたくなる。すると潰れてしまうやろなあ。上手く育てれば儲けものや」

 野茂は高校、社会人と自分の投球フォームを変えなかった。この頑固さこそがプロで生き抜く要因になると信じて、迷わず1位指名に踏み切った。

 河西独特の内野手のセンスを見抜く方法も持っていた。それは併殺プレーでのベースカバーに行く足の運びである。同僚の堀井和人(後オリックス・スカウトG部長)は語る。

「走者一塁で二塁にゴロが行くと、併殺のためショートは二塁に入ります。このとき二塁手の送球を阿吽の呼吸でショートが受けて、一塁に転送します。そのためにはショートは相手が投げやすいように足を上手く運ばせなければなりません。早過ぎても、遅すぎても駄目です。しかも打球の早さにも左右されます。これは持って生まれたセンスなんです」

 河西はアクセントのある選手を重視した。すべてのプレーに平均的であるより、打撃、肩の強さ、足の速さなど一芸にずば抜けた選手のほうが、プロで生きていけると評価した。

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