(左から)野茂英雄、掛布雅之、中村紀洋(c)朝日新聞社
(左から)野茂英雄、掛布雅之、中村紀洋(c)朝日新聞社

 ドラフト会議も近づいた。希望球団をめぐり選手たちの悲喜こもごもの表情が見られる光景である。その最たる場面として、1995年11月のドラフト会議が印象に残る。

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 この年の目玉は、PL学園内野手の福留孝介(現中日)で、1位指名に7球団が名乗りを上げたが、交渉権確定を手にしたのは近鉄バファローズである。当たりくじを引いた監督の佐々木恭介の叫び声は今も語り草になっている。だが会場にいた近鉄チーフスカウト河西俊雄は複雑な表情になっていた。

 このとき河西は75歳、スカウト歴は30年を超える球史に残る名スカウトだ。彼の別名は、「スッポンの河さん」、喰らいついたら離さない粘り強い交渉は、阪神のスカウト時代には、藤田平、掛布雅之、上田二朗、山本和行など、大物を口説き落としてきた。近鉄に移ってからは、阿波野秀幸、野茂英雄、中村紀洋などを次々と入団させた。その極意は「誠意」。そのため「仏の河さん」と呼ぶ人もいる。

 しかし今回は、河西の手腕をもっても明るい兆しはなかったからである。福留は巨人、中日以外の指名なら社会人野球に行くと表明しており、福留の周囲にも当たったが、いい感触はなかった。しかし地元のスターが欲しい球団は福留指名を強行したのである

 河西自らが乗り出した交渉は難航し、言葉を尽くしても福留の意志を覆すことは不可能だった。福留の実家のある鹿児島市での交渉の後に、精魂尽きた河西はタクシーに乗り込むとき、倒れてしまう。慌てて同僚のスカウトが後ろから支えた。

 結局、福留は日本生命に入社するが、河西は「自分の意志を貫き通す賢い子や」と感心もした。以後、河西は体調を崩し、スカウト活動から徐々に離れてゆく。

「河西あるところに優勝あり」とは、球界での定説にもなっている。85年の阪神日本一、89年の近鉄リーグ優勝の主力選手のほとんど河西が手掛けていたからだ。

 河西は昭和30年代からスカウトを務めており、自由競争時代の生き馬の目を抜く時期に選手獲得を行っていたので、長年の経験で培われた目を持っていた。

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