●善光寺の不遇と本尊の顛末

 長野といえば、6年に一度のご開帳で知られる善光寺が有名だが(本来は今年が開帳の年だったがコロナ禍のため来年に延期となった)、元々は上杉側だと思われていた善光寺の国衆が武田側へ寝返ったため、上杉は失地を取り戻そうと出兵する。善光寺の寺宝などが戦火で焼失するのを恐れた武田は、甲斐に善光寺を建立し本尊ほかお坊さまにいたるまで組織ごと移転する。武田が織田信長によって滅ぼされるとこれらは岐阜の善光寺へ、本能寺の変の後は豊臣秀吉によって京都の方広寺へと移された。この間、本尊もなく荒れ果てていく長野善光寺を守っていたお坊さまがいた一方、本尊につき従って各地を渡り歩いたお坊さまもいたという。

●飯縄権現に対するふたりの思い

 最終的に、病気で伏せる秀吉の夢枕に阿弥陀如来が立ち「信濃に戻りたい」と告げたという話があり、秀吉が没する前日に長野の善光寺へ本尊は戻ったのである。こんな歴史を持つ本尊は、現在、絶対秘仏となっていてご開帳の時にお目見えするのはお前立ち(身代わり)の仏さまだ。とはいえ、このお前立ちも鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されている貴重な仏像である。

 他にも戸隠神社は武田の祈願を受けたことで上杉に追われ隠遁するはめになったことは以前の原稿でご紹介した。戸隠山の一部と扱われていた飯縄権現を、兜の前立てにまでしていた上杉謙信にとって、武田に支配されることは許し難かっただろう。もちろん武田信玄にとっても守護神として飯縄権現の小像を持ち歩いていたというから(飯縄権現は不動明王の化身とも)、信濃一帯は2人にとって譲れない神々の住む場所だったに違いない。

●武田家が川中島で失ったもの

 ここまで書くと、川中島は武田が勝ったのではと思われるかもしれない。だが、川中島古戦場跡からわずか1キロちょっとの所にある「典厩(てんきゅう)寺」を訪れると、また別の思いになる。ここは武田信繁が弔われているお寺である。元々は鶴巣寺という名のお寺であったが、のちに信繁の役職名から典厩寺に名を改められた。信繁は川中島で討ち死にし、上杉方に取られた首級を家臣たちが追撃して取り戻したという。

 また古戦場跡から東に800メートルのところには山本勘助の墓もある。この2人が生きていれば、武田家のその後は大きく変わっていただろう。

 典厩寺には、日本一大きいと言われる閻魔大王像が鎮座する。地獄の裁判官ならば川中島の勝敗を決められるだろうか。それともその後の武田と上杉の歴史がすでに判決の結果なのだろうか。いずれにしても戦さの陰で、当時者の数の何倍もの普通の人々が苦しめられてきたのは、今も昔も変わりはしない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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