江戸幕府の家臣団のトップと言えば、政務を統括する役職の「年寄(老中)」である。なお、家康の時代は「年寄」と言われ、寛永十五年(1638)以降「老中」と呼ばれるようになる。 

 しかし江戸時代を通して、譜代大名の中で最高の家柄である直政の彦根藩井伊家(二十五万石)が、老中より上の大老を輩出したことは別として、榊原康政の家(十五万石)は、一度も老中を出すことはなく、本多忠勝の家(十五万石)が二人、酒井忠次の家(十四万石)が一人しか出していない。

 これら「老臣」「宿老」と言われた家は、譜代大名としては破格の石高を有し、その役割は、重要な城を任され、有事の時に軍団を率いて徳川家を守ることだったのである。よって、将軍の側にあって、政治の補佐役ともいうべき「年寄」では役不足であり、彼らよりも石高が下の譜代大名が務める役と考えられていたのだ。そのため、戦場の猛者たちが、江戸幕府の政治向きの職務につかなかったのは当然のことであった。

 幕府が開かれた時、まず年寄を務めたのは、本多正信・大久保忠隣である。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」との一節がよく知られる『本佐録』は、その書名が「本多佐渡守」の意味であることから、本多正信の書という説がある。その真偽のほどは確定していないが、このようなエピソードがあるほど、正信が農政に力を注いだことがわかる。

 一方の大久保忠隣は、時代劇などで天下の御意見番として有名な大久保忠教(彦左衛門)の甥にあたり、11歳の頃から家康の小姓として側そばに仕えていた人物である。

 家康の政治は、武将たちばかりでなく、豪商、僧侶、学者など、多士済々の人々に支えられていた。

 その代表的な人物に、家康が三河国にいたころから仕えていた豪商・茶屋四郎次郎家初代清延がいる。諜報活動や、軍事物資の調達に従事し、小牧・長久手の戦いの際には、秀吉との和解に貢献した。

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ウィリアム・アダムスの存在